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ANAのE190-E2(イメージ、エンブラエル提供) https://www.aviationwire.jp/archives/318934

夏の思い出  ~ リハーサル

朝、目が覚めると、私はあわててすぐ居間に行き、SEIKO EMBLEMの置き時計を見上げた。気持ちよくぐっすり眠った爽快感、と同時に襲ってきた恐れ。やっぱり寝過ごしてしまった!もう6時だ!窓からはすでにきょうも猛暑を予想させる陽ざしがたっぷり差し込んでいる。今日7月12日、土曜日は札幌の知人宅を訪ねるため、朝8時のフライトで日帰りする予定だったのだ。一瞬途方にくれたが、ともかく間に合ってもそうでなくとも空港まで行こう。一度仕事で熊本へ行ったときも15分間で支度して、運よくタクシーがすぐ来てくれて間に合ったことがあった。今回も持ち物はそろえてあったので、タクシ―代はまた散財するが、ともかく出発しよう。羽田空港まで行きますと言って頼み込んで3つ目のタクシー会社で対応できそうだった。6時半ごろ自宅を出て、途中車中は必要なことを運転手さんに伝えたあとは、間に合うかどうかはわからず、二人ともほとんど無言だった。週末なのに船橋と羽田をつなぐ湾岸道路は空いていて、7時15分には空港に到着した。私が降りるときに運転手さんはようやく笑顔を見せて「よいご旅行を!」と言ってくれた。私も間に合った安全運転にお礼を言った。

私は空港のスタッフに言われるまで朝の8時のフライトに間に合ったと思った。「お客様のフライトは明日12日の午前8時でございますね」と、通常の事前チェックインができないとカウンターまで行くと、そう言われたのだ。「きょうは12日土曜日ではないですか?えぇ?きょうは11日金曜日でしたか?」私は信じられないというように聞き返した。係りの女性はしばらくの間、私が正気を取り戻すのを黙って見守ってくれた。乗り遅れるケースよりは問題がないと思われているのか、平静さを身にまとうエチケットなのかわからないが、係りの応対ぶりには感心した。

調べてみると、この週の平均的日没時間は午後6時58分だった。日没後も一時間近くは薄明かりが続くそうで、空港の照明は夜の輝きではなかったのだろう。気を取り直して、空港のスタッフには「また明日来ます」と、から元気で言うと、帰宅する空港バス乗り場近くのソファで、次のバスを待った。

ぼんやりと座っていたがその間、私はどうしてこんなことになったのかこの日一日を含めて1週間の詳細を巻き戻してみた。11日午前中は、1年前に転倒してから、検査をしていなかった耳鼻咽喉科に行った。成田空港に行く途中にある「北総白井病院」がよいという勧めがあり知ったのだが、中規模で適度に人で混み合い好感が持てる病院だった。転倒の打撲による後遺症の心配はなく、ただしメンタル面では強い恐怖感がずっと持続したことは言えるそうだ。薬も必要ないと言われて、これで1年間の私の最大の悩みに関して、大きな安心感を得られた。さらにこの1週間は、5日土曜日に紛失したクレジットや銀行カードを含むお財布の警察への届け出や再発行手続きなどに追われた。幸い3日目には、習志野警察署から駅構内のコンビニのセルフレジで、置き忘れたお財布が見つかったと連絡があった。10日木曜は再発行されたカードのうちいくつかが届いて、旅行にも支障はなくなった。

11日の日、病院から帰宅し、安堵と疲れで朦朧としたまま翌日の旅行の準備をしたのは覚えている。そして2時間ぐらいのうたた寝をし、寝ぼけていたのか、早合点か、一夜明けたと思ってしまった。しかし、まだ前日である11日に出発しようとした自分を、ちょっとおかしいと止めるきっかけやヒントはなかったのか? 爽やかな目覚め、厳然と6時を指す時計の針、カーティンをしめないで寝てしまったためか、居間一杯に拡がっていた陽ざし、この3点で「朝だ!間に合わない!」と即断したとしか考えられない。

7月の夕方の6時が、朝の6時と同じように明るいのだという実感が身に染みた。

暗闇のなか、リムジンバスに乗って夜10時近くに帰宅した。

15年ぶりに加藤ご夫妻と再会するのが楽しみだとは言え、リハーサルまでしたことは言わないでおこう。翌朝はアラームをしっかりとかけ、思いっきり早いリムジンバスに乗った。

 

A Summer Memory – rehearsal

When I woke up in the morning, I hurried straight to the living room and looked up at my SEIKO EMBLEM clock. The pleasant feeling of having slept deeply and soundly was quickly overtaken by a sense of dread. I overslept! It was already six o’clock! The sun was already shining brightly through the window, promising another scorching day.

Today, Saturday, July 12th, I was supposed to make a day trip to visit an acquaintance in Sapporo, taking an early 8 a.m. flight. I was momentarily at a loss, but I decided that whether I could make it or not, I would head for the airport.

Once, when I had to go to Kumamoto for work, I managed to get ready in 15 minutes and caught a taxi that luckily arrived right away, so I made it in time. This time too, my things were already packed, so although taxi fare would cost me dearly, I decided to get going. I pleaded with the dispatcher, “Please take me to Haneda Airport.” And it was the third taxi company I called that finally agreed to send a cab.

I left home around 6:30. During the ride, after telling the driver what was necessary, we both fell silent, not knowing whether we would make it in time or not. Fortunately, despite it being the weekend, the Route Wangan connecting Funabashi and Haneda was clear, and I arrived at the airport by 7:15. When I got out of the taxi, the driver finally cracked a smile and said, “Have a good trip!” I thanked him for the safe and timely ride.

I thought I had made it in time for my 8 a.m. flight until the airport staff told me otherwise.

“Your flight is at 8 a.m. tomorrow, the 12th, correct?” said the staff when I went up to the counter because the regular pre-check in was not possible.

“Isn’t today Saturday the 12th? What? Today’s is 11th Friday?” I asked back in disbelief.

The female staff in charge silently watched over me for a while as I regained my composure. I couldn’t tell if she was trying to remain calm because she thought missing the flight wasn’t a big deal or if it was just part of their etiquette, but I was impressed by their professionalism.

Upon checking, I found that the average sunset time for that week was 6:58 p.m. I learned that the twilight lingers for a while even after sunset, so the lighting at the airport probably didn’t have the full glow of night yet. Pulling myself together, I forced a smile and said to the staff, “I’ll be back tomorrow then,” and waited for the next bus home on a sofa near the airport bus stop.

I sat there absentmindedly, replaying the entire day and then the whole past week in my mind to figure out how this had happened.
That morning, the 11th, I had gone to an ENT clinic for the first time in a year since my fall. I had been told that Hokuso Shirai Hospital, which is on the way to Narita Airport, was good, so I went there. It was a medium-sized hospital, moderately busy, and left a good impression. The doctor said there was no lasting damage from the bruises I got when I fell, though I was told that the strong sense of fear I felt at the time probably lingered mentally. They said I didn’t even need medication, so with that, the biggest worry I’d carried for a year was lifted from my mind.

On top of that, this past week I’d been tied up with reporting the loss my wallet and replacing cards, which I’d lost on Saturday the 5th. Luckily, on the third day, Narashino Police Station called to tell me they’d found my wallet at a self-checkout register inside a convenience store within the station. On Thursday the 10th, some of the replacement cards arrived, so there was nothing left to hinder my trip.

I remember coming home from the hospital on the 11th, feeling relieved but exhausted, and preparing for my next day’s trip while half-asleep. After a two-hour nap, either groggy or jumping to conclusions, I mistakenly thought a whole night had passed.
But was there really no clue, no hint to stop me from heading out on the 11th? Looking back, I could only I conclude, “It’s morning! I’m going to be late!” because of three things: the refreshing feeling when I woke up, the clock hands pointing squarely at six, and the sunlight flooding the living room because I hadn’t closed the curtains when I lay down.

This made me realize just how bright 6 p.m. can still be in July, just like 6 a.m.

In the end, I got on the limousine bus and got home at around ten that night.

I was truly looking forward to seeing the Katos in Sapporo again for the first time in 15 years, but I think I’ll keep quiet about this little “rehearsal.”
I set my alarm properly and took the earliest limousine bus back to the airport the next morning.

The End.

金沢へ会いたい人

松の内は13日までという習慣で育ってきたから、まだお正月気分の9日の朝、羽田発小松行きの飛行機に乗った。小松と金沢の天気予報は雪と強風で最悪だ。これまでの私の国内便の最短時間、50分ぐらいたつと着陸準備のアナウンスがあった。乗り込んだときは、頭上のトランクに自力で自分のスーツケースを持ち上げて乗せることができなかった。真後ろの乗客が親切に収納してくれたのだが、今度は自分で降ろすのが当然だ。そのために着陸に備えて足元をごぞごそ動かして、ブーツを脱ぎ始めていた。それで裸足で座席の上に立ってスーツケースを引っ張り下ろすのだ。寒い天候と知って、あれこれ衣類が一杯で重たくなってしまった。

このスーツケースを引っ張って空港の出口に近づくと鮮やかな空色のコートとマフラーの大柄な女性、東京から小松の実家に戻ったばかりの、メイメイが手を振っている。空港で出迎えてくれる人がいるなんて、久しくなかったためか、体がジーンと温まった。彼女とは東京の職場で50年近く一緒に仕事をした。もっとも彼女はハンガリー、ベトナムなど海外赴任も国内外の出張が多い部署だったので、いつも顔を合わせていたわけではないが。彼女は、どこだったか、出張先でつけてもらった愛称「メイメイ」を気に入っていて、私たちもそう呼んでいた。

メイメイは、きょうはこのまま金沢まで一緒に行ってくれるのだ。空港バスのチケットも用意してくれて、お金も受け取らない。1300円という数字を眺めたままバスに乗った。「きょうは晴れ渡ってよかったわね」彼女は嬉しそうに空を見まわした。

小松空港から空港バスで金沢までの車中から眺める光景や金沢駅周辺の街並みは、父の故郷、米子空港から空港バスで松江へ、そして松江駅周辺を思い出させた。それを言いかけて、「似ているけれど、松江と金沢では人口が金沢は2倍なのね。さっき調べたら、金沢は40万人を超えていた」と感心してみせた。駅構内の商店街は高さも広さもゆったりとした構えで、さらに駅前の天井は透明感があり突き抜けて高く、雨や雪の日も濡れないで行動できる範囲が拡がっている。

予約した駅のそばのホテルにチェックインし、昼食もそこでとることにした。

メイメイとは近況を交わし、小松や金沢の比較や、金沢市内ではどのあたりが歩きやすいかなど聞いた。彼女はお食事が終わるころ、私へのプレゼントだと言って、上品なサンゴ色の漆塗りに、真珠の飾りがついた蝶のブローチをくれた。「私が蝶々大好きって覚えていたの?きれいなプローチね」友だちの工芸家に創ってもらったそうだ。彼女は照れたように、いままで私から折々に沢山のプレゼントいただいてきたから、と何か理由を言わないといけないようにつぶやいた。「明日さっそく音楽会につけていくわね」。

運よく天気予報は当たらず、今日も明日も快晴のようだ。明日は午後から、甥の家族に会える。そしてメイメイも甥と奥さんと私と一緒に、オーケストラ・アンサンブル・金沢(OEK)のニューイヤーコンサートに行く予定だ。

 

翌日朝食を一人終えると、昨日メイメイに教えてもらった、デパートM’zaまで歩き、さらに兼六園までつながる道を歩いた。

初詣に尾上神社にお参りをするつもりで、神社の近くまで行っていたのだが開門前だった。

開門後は、お参りの列ではなく、社務所の方の小道に迷い込んでしまったのだが、そこは祈願をお願いする人たちが待っているところだった。祈願するとはどういうことかと改めて聞くと、厄除けとか特別に祈願することがあれば、神様に直接お願い事を取り次いでくださいますと言う。昨年から車を運転する機会が増えたので、「交通安全」にしようか。それだけでなく禍いすべてから護るお願いもできますと言われて、そうしていただくことにした。現金を持っていないと手続きができないのだが、いつも現金をあまり持ち歩かない私が、幸いなことに言われた金額を持ち合わせていて、20分間の祈願の行事に参加できた。こうして金沢の前田利家公と正室を祀る尾山神社に初詣をすることができた。

 

OEKの演奏を楽しみ、私のなかでは気になる人、指揮者広上淳一の音楽に初めてふれた。「幸せを音楽で届けたい」というオーケストラの願いを私も受け止められた気がした。彼の体を大きく使う指揮のスタイルは、音楽的には私は門外漢だが、指揮者は大振りに体を使う方が健康によいという、だれかの新たな珍説を思い出した。ともかく甥夫婦もメイメイも私もただただ楽しかったし満足した。午後4時の終演後、外はまだ陽ざしがあたたかかった。予定のあるメイメイと別れて、奥さんの運転で甥の3人の子供たち、中学1年の女の子、小学生の2人の男の子が待つ甥の家へ。

「みんなに会いたかったよ!」「なんで?ウチラ1月1日に船橋まで行って会ったばかりじゃん。」「いつも会っていたいの」「きのうは和太鼓の練習を2時間したし、みんな将棋教室やゲームするし、けっこういそがしいからね~」弟たちの日程まで説明する長女。甥がSAZAコーヒーをいれてくれた。「さぁ、お菓子少しだけ食べよう」

「そしてみんなでお食事しようね」。

People I Long to See in Kanazawa

今年の目標 ~ 続・クロールの研究

*数年前、体験にもとづくノンフィクション、第二話で、「挑戦したこと~ クロールの研究」を書いた。これはその続編である。

 

母の実家がある山口県光市の遠浅の瀬戸内海。就学前から親戚や近所の幼馴染みと一緒に遊んだ楽しかった日々。夏の思い出はいつもその海と砂浜の風景とともに蘇る。水泳もこの海で教わって泳げるようになった。

社会人になってからずっと、泳ぐことはいつも身近にあったが、場所は海からプールに変わった。解放感は激減し、周囲の人の泳ぎが目に飛び込んでくるようになった。

人の泳ぎを見ると、自分のクロールのぎこちなさにますます自信が持てなくなってきた。手足をそれぞれのタイミングで動かし、息継ぎもスムースでないと、左右や上下のバランスが崩れる。無心で子供のときに身に着いた平泳ぎや背泳と違って、大人になってから始め、考えながら泳ぐクロールは、なんてむずかしいのだろう。

まだスイミングクラブというのは周囲にはなかった。都心の屋外プールには一般の希望者を指導するコーチがいるところもあり、通ってみたが私には内容が高度すぎた。手の使い方も理論的だったが別の泳ぎ方に思えるほどだった。クロールは、あきらめるしかないと消沈した。

最近、ご無沙汰していた水泳に足繁く通うようになったのは、昨年の夏、自分にとって馴染みのプールの一つが、デジタル水泳指導を一斉に取り入れたことがきっかけだった。

泳ぐ本人が、自分の泳ぎを見ることができないのは、教える方も指導を受ける方も大きな障害だったはずだ。Sonyが開発したデジタルシステムPULSEZ(パルセズ)がビジネスモデルとなって、たちまち全国のプールは刷新されていたようだ。

自宅の近くの大手スポーツクラブの「デジタル水泳教室」に恐る恐る行ってみた。毎回5人から7人ぐらいの参加者に、コーチが一人、気が付いたことを指摘してくれる。ここまではよくある光景だが、実地指導の大半は、水中も含めてカメラで撮影した映像をタブレットに送り、それを時々見ながら直したいところを教わるというやり方だった。デジタル化は当然、社会全般に浸透しているとはいえ、プールの変容には驚いた。

私が初めて自分が泳ぐ動画を見たのは、月1回、好きな泳法で25Mを泳ぎ、タイムを計測する日だった。画面を見て思わず「これは私ですか?」とコーチに聞いてしまった。

「凄い!」と予期せず感動したのだ。かなり上手く泳いでいるではないか!

自分で苦笑してしまうのは、すっかりあきらめていたクロールに、これを機会にチャレンジ精神が再燃したことだ。「デジタルを取り入れた後のプールに間に合ってよかった!」

帰宅後、携帯に届いた動画を気分よく満喫していたのも束の間、プールからの帰り道に違和感があった左膝の痛みにがまんできなくなり、近くの整形外科に行った。レントゲンの結果は膝のまわりのカルシウムがはがれて、それが膝のまわりで刺さったり飛び散ったりしているという。1週間ほどで自然と定着するので痛みは落ち着くそうだ。『高齢者に多い』と医師は言われなかったが、「急な運動などで、時々生じることがあります」と言われた。

新しい年を迎えて、まだ3回しか泳いでいない。

今年は不規則でもプールに通って、少しでも上達して気持ちよく泳げることを目指してみよう。

ライフワークというには大袈裟だが、長く夢中になれるよう、むしろこちらを目標にしよう。

自分がいつの間にか、このような願いを持っているなんて、嬉しさと滑稽さに包まれた。

This Year’s Goal – Sequel: Researching the Crawl

A few years ago, in the Episode2 of Fiction/ Non-Fiction based on experience, I wrote an essay titled “The Challenge — Swimming Freestyle study. This is its sequel.

The Seto Inland Sea off Hikari City in Yamaguchi Prefecture, where my mother’s family home stands, is shallow and calm along the shore. Before I even started elementary school, I spent joyful days there playing with relatives and neighborhood friends. My memories of summer always return with images of that sea and its sandy beach. It was in those waters that I first learned to swim.

Even after I became an adult, swimming remained close to me. However, the setting shifted from sea to a pool. The sense of freedom diminished sharply, and the swimming styles of those around me became hard to ignore.

Watching others swim made me self-conscious about own clumsy crawl. Unless the arms and legs move in precise coordination and the breathing is smooth, balance from side to side and top to bottom collapses. Unlike the breaststroke and backstroke I had absorbed effortlessly as a child, learning the crawl as an adult, swimming while consciously thinking about the technique, felt extraordinarily difficult.

There were no swimming clubs nearby in those days. Some outdoor pools in central Tokyo offered lessons, so I tried attending one, but the level felt too advanced for me. The techniques were explained logically, yet it made me feel like it was a completely different stroke to what I had known. Feeling discouraged, I resigned to the idea that crawl swimming was simply beyond me.

Recently, however, I began visiting the pool regularly again. The catalyst was that one of the pools around my house introduced digital swimming instruction last summer.

The fact that swimmers cannot see themselves while swimming has always been a major obstacle for both teacher and student. A digital system called PULSEZ, developed by Sony, has apparently become a business model, rapidly transforming pools nationwide.

With some hesitation, I attended a “Digital Swimming Class” at a major sports club near my home. Each session had five to seven participants with a coach offering feedback. Up to this point was familiar enough. What was striking, however, was that most of the instruction involved video footage, recorded both above and below water, sent to a tablet. We would watch the clips intermittently and learn exactly what to correct. Digitalization has permeated society as a whole, of course, but I was astonished by the transformation of the pool.

The first time I saw a video of myself swimming was on the day when we swim 25 meters in our preferred stroke and have our time recorded once a month. Looking at the screen, without thinking I asked the coach, “Is that really me?”

“Wow!” I was unexpectedly moved. I was swimming far better than I had imagined.

What makes me smile wryly is that this rediscovery reignited my long-abandoned determination to master the crawl. “I’m so glad I decided to come back to the pool after digitization!” I thought.

After returning home, I happily replayed the video sent to my phone, but this joy was short-lived. The discomfort I had felt in my left knee on the way back from the pool grew unbearable, and so I visited a nearby orthopedic clinic. An X-ray revealed that calcium deposits around the knee had come loose and were scattering within the joint. The doctor explained that they would settle naturally within about a week and the pain would subside. Although he did not explicitly say, “This is common among the elderly,” he did remark, “It can sometimes happen after sudden exercise.”

Since the new year, I have only swum three times.

This year, even if irregularly, I will keep going to the pool. My aim is to improve, however gradually, and to swim comfortably and with pleasure.

It may be grand to call it a life’s work. Yet perhaps this is precisely the kind of goal that can hold my fascination over the long term.

The realization that I now carry such a wish fills me with both quiet joy and gentle amusement.

— End —

 

旅の思い出~敦煌を目指して

*敦煌への旅行について中国への旅行 2010年で書いた。以下は後に「旅の思い出」としてコンパクトに改訂した小品である。

 

札幌の加藤ご夫妻とは、私が、北海道事務所で仕事をしていた2007年から2009年の間に、知り合いになった。加藤さんは、海外からの高校生や留学生を自宅に招き、週末には日本の高校生や大学生との交流にも工夫されていた。それを10年以上も続けて来られた。

加藤さんは、中国との関わりが会社の仕事でもあるわけではなく、「一度、夏休みを利用して観光ツアーに参加したのが初めての中国への旅行だった」と、加藤さんの一冊目の著書、「ぶらり全省 中国大陸をゆく」(2011年9月 伏流社 @昆明市)の序文に書かれている。この本は2000年に会社を定年退職された加藤さんが、その後10年間に、中国大陸を、ぶらりと全省を歩いた記録である。2冊目の著書は「私が歩いた中国世界遺産 旅とまち歩き」(2021年8月 (株)印刷紙工 @札幌市)で、一冊目同様、写真も豊富に掲載されている。

私が一度も中国に行ったことがないと覚えていてくださって、2010年の夏に声をかけてくださった。私は東京に戻っていたが、北海道で一緒に仕事して以来、親しかった同僚の友佳里さんと参加することにした。加藤さんと旅行代理店の郭さんがどこに行くか、日程を調整してくださったので、夏休みに私たちの希望の甘粛省蘭州市も旅程に入れてもらった。加藤さんの友人たちはみんな敦煌に行きたいということだった。ちょうどよい、同じ甘粛省だと安易に考えたのは、中国についてその広大さや多様性を知らなかったからだと、この旅行を終えたあとそう振り返った。敦煌に行けることはもちろん私たちも喜んだ。こうして加藤さんは、自分のボランティア仲間と学校の同窓生を誘って、男女7人ぐらいのグループをつくり、そこに私と友佳里さんと、代理店の郭さんの10人の団体旅行が実現した。

加藤さんと一行10名は、まず上海に向かった。そこは5月から10月まで上海万博2010が開催されていた。加藤さんと郭さんは、私たちが万博を少しでも見られるように2時間くらいの時間がとってあった。サウジアラビア館はじめ、中東の国々は先端技術の展示が大人気で長時間待たないと入れないと、日本の新聞でも報道されていた通り、長蛇の列がつくられていた。

中国、韓国、欧米もメキシコなど南米の国々、インド、東南アジアの先進諸国なども混み合っていた。幸い私も友佳里さんも、日頃親しんでいる好きな国々の展示館、例えば、モンゴル、ミャンマー、中央アジアのウズベキスタン、タジキスタン、キルギスなどではゆっくり過ごせたので、大満足だった。[edited March 25, 2026]

加藤さんの説明によると、上海から私たちは空路、甘粛省の蘭州市に行く。彼は5年前に北京から空路、蘭州市に行き、蘭州から鉄道を乗り継ぎながら敦煌まで旅行したことがある。中国の地図を広げながら、甘粛省の北はモンゴルと新疆ウイグル自治区に接していて、東は内モンゴル自治区、西は青海省だと位置を示してくれた。甘粛省はシルクロードとしても知られる砂漠地帯であるが、東西に5000メートルを超える山々が連なって、一年中氷河や雪が残っているため、その雪解け水のおかげで、広大な砂漠のオアシス地帯になっているのだ。蘭州からは鉄道で瓜州に行き、そこからまた鉄道を乗り換えて敦煌まで行くのだ。敦煌は、日本では文化、歴史、宗教、芸術、観光、自然など様々な観点からよく知られた、根強い静かな人気があるところだ。中国で敦煌は「日本人が一番好きな観光地」として知られているようだが、私の家族、親戚や友人も敦煌に歴史的、文化的な関心や憧れを持っている人たちが多かった。

私と友佳里さんが甘粛省に行きたいと加藤さんに言ったのは、その年に北海道での大学との交流や札幌市での地熱エネルギーなど技術研修や視察をした人たちと再会を約束したからだった。1993年代後半以降、江沢民氏、胡錦涛氏が主席の20年間に、中国は「西部開発」といって、中国の後発地域の人材の研修を海外で行っていた。日本の北海道はその地域開発の成功モデルの一つに選ばれていたようだ。

私と友佳里さんは都市部の甘粛省蘭州市と、もう一つは蘭州から車で3時間はかかると言う合作に行きたかった。敦煌も甘粛省にあるとは聞いていたが、同じ省と言っても、甘粛省の面積の広さは中国でも別格だった、と後に知った。最初に訪れる蘭州から合作まで、車で片道3時間と予定していたが、実際には2010年当時は、途中、場所によっては道路事情が悪く、そう簡単ではないと、札幌で研修をした中国のエネルギーや地域開発の専門家たちは心配してくれた。だれも合作には行ったことはないと言った。

加藤さんと、友人の方の中には、1980年代前後にNHKが長期にわたって放映したテレビ特集「シルクロード」で敦煌莫高窟の石像や洞窟内の日本の奈良や大和路に通じる壁画群を見て、敦煌には一層関心と親しみを持ったと言われた。1400年前、唐の僧侶、玄奘三蔵法師が、インドに経典を求めて唐が禁じていた出国をして、そのままインドで16年を過ごし経典を書き写し、学問を深め、経典の写しを唐に持ち帰った。そして唐に帰国後、その後の人生はそれらの経典をサンスクリット語から漢訳しすることに没頭した。小説「西遊記」のもとになった旅行記「大唐西域記」を著わしたのも玄奘三蔵だ。敦煌周辺を、玄奘三蔵がインドに向かう途中におとずれたことを自ら綴った記録があり、その一つが月牙泉という現存するオアシスだと説明されている。

 

甘粛省での再会

蘭州に着くと、加藤さんの案内で、蘭州の賑わう街のなかをみんなで歩いた。蘭州ラーメンが有名なので滞在中にぜひ行こうと話した。この日は黄河を見渡しながら、白塔山に登った。登ったと言ってもすぐ頂上に着いたのは、蘭州は海抜1500メートルにある都市で、200メートルほど登れば白塔山の頂きに到着した。黄河の流れが一望できて、間近に迫る黄河と白塔山を静かに眺めることができた。

ここにある白塔寺は、ラマ教の僧侶の供養のために、ジンギスハンが建立したということだ。ここは、観光地というよりも、長く人々の信仰の場であり続けた、心落ち着くところで、大変印象深かった。

次に蘭州大学を訪問し、そこにはこの大学で研究や指導をする、地熱エネルギーの行政官や専門家たちも待っていてくれた。豪華なご馳走を準備してくださって、なつかしく再会した。

 

甘粛省合作へ

蘭州で、友佳里さんと私、加藤さんとその友人たちは一日別行動をとることになっていた。

私たち2人は、蘭州から車で約3時間のところにあると聞いていた合作の甘粛民族師範学院を訪ねることにしていた。

この大学は、まだ完成はしていなかったが、その院長が中央党校の視察団の一員として日本の北海道を訪れて地域開発、高等教育の専門家と交流した。特に北海道大学は、中央党校というものが何であるかよく認識していて、活発な意見交換が行われた。中央党校は、胡錦涛主席が創立し、毎年中国全土から共産党幹部候補生を100人を選抜し、全員を北京に集め、1年間、理論と実地を研修する党校だった。胡錦涛政権下では中国全土の幹部候補生が、ここでまず、一緒に研鑽し、毎夏には海外研修が3グループに分かれて行われて、30数人ずつ、日本の他にはシンガポールと韓国に派遣された。日本グループはさらに3グループに分かれて、東京から例えば北海道(札幌)、関西(神戸)、九州(福岡)というように10数人ずつ訪問が行われた。

中央党校の研修期間中のプログラムにはホームステイがあり、受け入れ家庭候補の一つに前鼻多喜美さん宅があった。彼女は札幌市西区の丘の上に広大な自宅があって、敷地内に彼女が経営する印刷工場と事務所があった。

そこで甘粛省の民族師範学院の院長、同じく甘粛省の農業大学学長、寧夏回族自治区の党幹部の方の3名は週末を前鼻宅で過ごした。前鼻さんは広島県から入植した屯田兵の5代目だということを、誇りにしていて、この日はご先祖の挫折や成功、あるいは次世代の教育上の課題など、中国語ができる息子さん2人の通訳で大いに語り合ったと言っていた。

合作の民族師範学院への行き方は、旅行代理店の郭さんが、タクシーを手配してくれていたのだが、郭さんも合作までの手配は経験がないと言いながらやや不安を感じていた。甘粛省の地熱エネルギーの専門家の高さんが、合作までの地図を見ながら、行ったことがないところだが学院まで車で3時間では行けないような気がする、と心配し始めた。2、3人で相談していたが、学院に連絡してくれたらしい。すると学院では、院長の運転手さんが私たちを迎えに行くことになっているという。

翌朝、学院の運転手さんが車で来てくれた。2010年のことだから、現在は見られない光景や景色を私たちは眺めながら合作に着いたと思われる。合作までの3時間の道のりは、蘭州から南へ向かって走行したはずで、今地図を見ると、「臨夏」、「甘南」あたりを通ったと考えられる。甘粛省内でも際立って異なる文化圏に入ったことがわかった。道路はまだ舗装されていないところが多く、砂利が混ざっているところもあった。頑健な車両と、道に精通し、熟練した運転手でないと安全に目的地には行けないとすぐ悟った。

イスラムのモスクがあちこちから目に飛び込んできた。建物といえば、緑色の丸い屋根をしたモスクが目立って、その周囲は人がやや集まって居住している地区だと見受けられた。時々、私たちが珍しいのか、立派なドイツ車(ベンツ)への好奇心からか車の近くから覗き見る男の人たちがいたが、女性はあまり見かけなかった。広くて平たんな道路をひたすら走るという区間もあった。そこは緑の樹木はほとんどなく殺風景だった。

(前回ここまで読みました。以下、続きです)。

合作の民族師範学院に着くまでに2か所で車から降りた。最初は全体の3分の2を通り過ぎた辺りだっただろうか。そこには大学(学院)から2名の先生が私たちを迎えに来てくださった。大きな看板と、その向かいに石碑が立っているだけのところだったのだが、重要な目印、あるいは記念碑になるべき場所のようだった。それは2000年ごろまでそれ以上内部には、特別な許可を得た人と居住者以外は通行禁止だったと説明してくださった。次に案内されたのは、チベット仏教の寺院であるミラレパ仏閣だった。8階か9階建ての荘厳な仏閣で、寺院内での祈りの作法は、私の経験のなかでは、モンゴルのラマ教に似ていた。案内してくださったこの二つの場所は、学院の先生たちにとっては、神聖で意義深い場所だということがしみじみと伝わってきた。

到着すると副院長が挨拶に出て来られた。「実は、昨日は事態が流動的だったので、言えなかったのですが、同じ甘南チベット族自治州 の舟曲で、洪水による土砂崩れがあり、死者・行方不明者多数続出しています。昨日北京から温家宝首相が現地入りし、指導に当たっている。院長にも召集がかかり、『お会いできないのは大変残念です。あとは副学長に任せますが、大歓迎です。よろしく伝えてください』と言って今朝早く出張しました」と言われた。舟曲でおよそ1700人が死亡し、300人近くが行方不明になっているという大惨事が起こっていた。北京政府もチベット・少数民族のこうむった被害には万全の対策をとろうとしているのだろう。チベット・少数民族を対象とする高等教育機関である、民族師範学院の今後の役割と責任は、大変微妙な慎重なものがあると、まったく実情も知識もない私たちでも想像できた。その晩のテレビでは、温家宝首相が土砂崩れの現場で、崩壊した家屋と土砂に閉じ込められた人々の名前を連呼し、大声で励ます映像が、繰り返し映し出されていた。

 

5年後に再会を!

副院長と夫人と小学生と思われる息子さん、それと数名の学院のスタッフは、誠心誠意、遠路訪ねてきた私たち2人を歓待してくださった。1年前の2009年に学院として認可され、院長を筆頭に大学で働く人たちは、近くの大学の寮に居住しているそうだ。院長も普段は寮に寝泊まりして、開校までの準備を進めているようだった。立派な図書館をまず完成させることに注力していて、現在、中国全土からチベット語の文献を収集することも行っているそうだ。チベット語の書籍の開き方や文字など、私は初めて目にした。図書館以外の校舎が完成していないので、昼食は校庭の仮設テントの中でとりましょうと、さわやかな空気の流れを感じながら、野菜と肉と果物、ケーキなどのご馳走をいただいた。

この日、別行動をした加藤さんのグループとの夕方の約束の時間に合流するため、また大学の車で送っていただいた。副院長は、「5年後にまた来てください。そのころには大学の建設も完成し、授業も開始される予定ですから」と言われた。大学からのお土産に硯をいただいた。私たち2人と、院長がホームステイをした前鼻さんに渡してほしいと、もう一つの硯を渡された。緑色に微量の灰色を落としたような初めて目にする美しい緑灰色の硯で、縁には羊の繊細な彫刻がしてあった。私たちは札幌から当時中国でもまだ珍しく、人気だったお菓子「白い恋人」などある程度は渡すことはできたが、中国では相手の人数が多いので、数はいつも十分ではなかった。簡素になってきたとはいえ、日中間には根強い贈答文化がまだまだ盛んなころでもあった。私たちのお土産は、立派な洮河緑石(とうがりょくせき)の硯にははるかに及ばなかったが心を込めたお礼だった。あれから15年後の現在、合作は中国のどの地域にも負けない近代化への変貌を遂げているのだろうか。

蘭州駅には発車間際で間に合った。10名ぐらいの人たちが見送りに来てくれていた。急いで預けてあった私と友佳里さんの荷物を列車に運んでくれて、慌ただしく別れを惜しんだ。合作に近い洪水のニュースが大きく取り上げられていたこともあり、だいぶ心配させてしまったと後で申し訳なく感じた。周囲の皆さんの計らいで予定通り、甘南自治州内を往来できたのだが、二人とも初めての中国旅行としては無謀だったかもしれない。関わってくださった甘粛の方々を思い出しながら、感謝の気持ちはいつまでも抱いている。

蘭州から酒泉へ

蘭州から新疆ウイグル州をつなぐ蘭新鉄道に乗って、砂漠のなかの一画を占める広域の市、酒泉に向かった。中国では、市とか県といった行政区分が日本と定義が異なるので、確かめる必要がある。酒泉は敦煌より広域の市で、瓜州や敦煌は酒泉に含まれる地域だそうだ。現在は、蘭州から敦煌まで鉄道がつながっているようだが、2010年は、いったん瓜州で下車して、敦煌まで乗り継ぐので蘭州からおよそ15時間弱の行程だった。ゴビ砂漠のなかのオアシスの広域都市の酒泉は、店が立ち並び、顔つきや容姿が様々な人たちが行き交って、歴史ある交易の街の雰囲気があった。「夜光杯」の産地としても有名だということで、その製造元を訪ねた。様々な緑色の食器や工芸品が並べられていて、美しい。光を当てると透けて見える。原石からこのような緑の製品が創られていくのだそうだ。夜光杯も素晴らしいが、同時に興味を持ったのは、唐の詩人、王翰(Wang Han おうかん)と言う人の涼州詞の書だった。現代の書家の作品が掛け軸になっていた。

葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
醉臥沙場君莫笑
古來征戰幾人回

注:和訳

葡萄酒の美酒を、夜光杯に注ぎ、
いざ飲まんとしたその瞬間、
馬上で琵琶が鳴り、出陣を促す。
酔って砂塵の戦場に倒れても、どうか笑わないでほしい。
古来、戦に赴いて帰った者が、果たして幾人あったろうか。

この書は一枚持ち帰って、仏間に飾って、辺境の砂漠の兵士たちを漠然と想像するときがある。

敦煌莫高窟

敦煌は、3世紀にはすでに西域の仏教の僧侶たちが往来し、学問の場でもあった。莫高窟というところには、492の石の洞窟に仏像や壁画が描かれ展示されている。全部が公開されているわけではなく、また見る側も一人が見る洞窟の数も制限がある。中は真っ暗だが、保全のためか照明がないので、説明員が懐中電灯で一つひとつ説明してくれる。大自然のなかに並ぶ洞窟は、年代ごとの大規模な美術館が建ち並んでいるようだと説明があった。紀元前4世紀の秦から14世紀元までの1000年の間、10の王朝によって継続されたという。

仏像は日本の仏像に通じる、見慣れた自然体で控えめな雰囲気があった。壁画は天女や浄土が描かれているものがあり、奈良のお寺や天平の美術工芸品の絵柄を思い起こさせた。

敦煌のお土産

敦煌では、海外からの訪問者のための記念品やお土産の、工芸品を創り、絵画や書などを描く専門の画家や芸術家が仕事をする研究所があるという。それらの作家の作品は、観光用のお土産もあるが、芸術品としても価値があるものも同時に売られている。

この日は皆で敦煌の街に出て、加藤さんが以前行った事がある土産物店に行くことになった。土産物店といっても、手織りの絨毯などの工場を併設していた。各種の膨大は作品群は、面積の広さも、天を見上げるような屋根の高さといい、壮大な体育館のような建物の中にあった。まず大きな絨毯が天井から床まで展示され、棚や机の上にも様々な絨毯や刺繍や帽子などが並べられていた。絵画も仏教に伝わるテーマが描かれたものが主流で、現代を代表する敦煌や中国各地の創作者、研究所の教官や若い画家などの作品だった。あたりを見回すと、いろいろ欲しくなって、特に天井に接する一番上に展示されていた、紫の地に緑色の龍を描いた大判の敷物の絨毯に知らず知らずのうちに見とれていた。私が見とれている様子を逃さないかのように係りの人が、消防署かサーカスで使うような長い梯子を持ってきて、たちまち、30メートルぐらいをスルスルと登って、重量もありそうな絨毯を素早く床まで降ろした。「これは見事でしょう?あなたはさすがです!一番上等な優れた作品ですよ」とその担当者らしき人は胸を張った。「あなたが気に入ったら、特別な割引をします。本当のことを言いますと、今年は上海万博があるので、観光客が多いと予想して作品を多く準備したのです。日本人は敦煌には足を運ぶだろうって期待していたのですが、どうも上海万博に行く人と、敦煌に来る人の客層は違っていました。全然客足が伸びないので、3割ぐらいは値引きします」相手は営業のプロだとわかっていても、言いなりになってしまうのは私だけだろうか。

帰国後、半信半疑だったが、敦煌での土産品は、すべて問題なく自宅まで無事到着した。

 

ラクダに乗って~ 鳴沙山と月牙泉

敦煌での最後の訪問場所は、鳴沙山という、自然が長い年月のなかでつくり上げた巨大な砂丘群とそこにある、6000年前から水が湧き出ているという月牙泉というオアシスだ。見渡す限り一面の砂漠と延々と連なる砂丘だ。莫高窟は市街地のホテルから南東に25キロ、鳴沙山と月牙泉は南に5キロのところにある。

ここで一人一人ラクダに乗って隊列をつくって、砂丘の山、鳴沙山に向うのだ。靴を赤いやわらかいフェルトの長靴に履き替えて、うずくまって待っているラクダのところに行って乗る。

私は靴の履き替えに少し手間取って他の人たちを追いかけて、ラクダが待っているところまで10メートルぐらい、砂漠のなかを走ろうとしたのだが、砂が思ったより深く、足をとられて進めず「大変だ!」と焦ってしまった。ラクダに乗らないことにはとても進めないと痛感した。ラクダの背にはコブが二つあって、その間にゆったりと座れるので初めてでも怖くはなかったし、体の幅が広いのでくつろげる感じがした。少なくとも私が乗ったラクダは人になついていてかわいかった。ただラクダも、人を見て扱いやすいと察すると、好き勝手なことを始める。前のラクダとじゃれて遊びだすとわかったので、気を引き締めた。敦煌や近隣の人たちが観光のためのラクダを、多くは自宅に連れて行って飼育し、観光業のために提供している提携関係があると聞いた。そのためかラクダは人懐こく、日頃かわいがられている様子が窺えた。

鳴沙山をゆっくりと隊列をつくって歩くときは、隊列の先頭、中間、そして最後にそれぞれ3人の係りが配置されて、ラクダを引いて砂の上を歩いて隊列を誘導してくれた。道中にはカメラを向けて、写真をとる係りの人もいて、希望者はラクダを降りる場所で、写真を買うことができた。途中で降りて自分たちで写真を撮り合う時間的ゆとりはないので、参加者にとってはとても貴重な記念写真となった。

時間的にどのくらい乗ったのかわからなかったがたっぷり1時間以上はかかったと思う。途中で、唐の時代に、禁を侵して出国し、仏典と学問を求めてインドに向かった玄奘三蔵法師が、自身が、立ち寄ったことを記しているオアシス、月牙泉に寄って敦煌の旅を閉じることになった。

もう一度くらいはシルクロードに来られると思ったのだが、もう2度と訪れる機会はないだろう。また敦煌の姿もだいぶ変容してしまったかもしれない。というのはこれまで制限なく訪問できた石窟群は、2010年の私たちが訪れた頃からは、壁画の傷みなどのために修復や入場制限が始まっていた。同時に加藤さんのような「ぶらり中国大陸をゆく」という自由な人と人の交流の時代がいつまでも続くのかはわからなかった。

思い出になる話のひとつに民族師範学院でいただいた美しい硯のことがある。それは一つでもずっしりと相当重たかった。虎屋の羊かん数本入りの二箱分くらいあったというと大げさだが、私は前鼻さんへと言付かったので2つ持って移動した。加藤さんはホテルに着くと、ちょっとした時間があれば「さぁ!町を歩こう」とトランクを預けると身一つでみんなを誘った。硯はトランクのなかに入れても、トランクは紛失もあるし、何かで手荒く投げられるかもしれない。当時の中国は今の中国のようではなかった。友佳里さんは注意深くトランクにしまってすませていたが、私は、硯だけはいつも2個とも散歩のときも持って歩いた。それほど硯に魅せられていたともいえるし、同じくらい師範学院の皆さんの歓待の気持ちに感動したこともある。町の散歩中も、鉄道や飛行機の中では周到に運搬した。日本に着いて、自宅を目前にした京成電車の中で、硯の包みを、一瞬の油断か、大型トランクの平らな面に置いたその時、ドスン!と急停車かのような衝撃で、硯はガタン!と電車の床に墜落し放りだされてしまった。タクシーの中では消沈して声も出ず、帰宅後勇気を奮い起こして開けてみると、二つともどこも異常はなかったのだ。嬉しい!よかった!と喜ぶ半面、道中後半の運搬上の細心の注意と努力は何だったのだろう、繊細そうでこんなに頑健だったのだ、といささか複雑な思いだった。だが結局は、私の行き届いた配慮は報われ、硯は突発的な事故には遭ったが、奇跡的に無事だったのだ。誰に話しても共感は得られないだろう思い出だが、今でも一人、悦に入るときがある。

Travel Memories: Heading for Dunhuang

*I previously wrote about my trip to Dunhuang in “Travel to China 2010”. The following is a short piece that I later revised and condensed into “Travel Memories.”

I became acquainted with Mr. and Mrs. Kato from Sapporo during the period from 2007 to 2009, when I was working at the Hokkaido office. Mr. Kato regularly invited high school students and international students from overseas to his home, and on weekends he also organized opportunities for exchange with Japanese high school and university students. He had continued these activities for over ten years.

Mr. Kato’s connection to China was not related to his professional work. As he writes in the preface of his first book, “Wandering Through Every Province: Traveling Across Mainland China” (September 2011, Fukuryusha, Kunming), his first trip to China was simply joining a sightseeing tour during a summer vacation.

After retiring in 2000, he spent the following ten years traveling casually across every province in mainland China, which he documented in that book. His second book, “The World Heritage Sites of China I Walked: Travel and Town Strolling” (August 2021, Insatsu Shiko Co., Sapporo), also includes many photographs, just like the first.

Remembering that I had never been to China, Mr. Kato invited me in the summer of 2010. By then, I had already returned to Tokyo from Hokkaido, but as a summer vacation I decided to join the trip together with my colleague Yukari, with whom I had become close while working in Hokkaido. Mr. Kato and Mrs. Kaku from the travel agency arranged the destination and schedule, and at our request they included Lanzhou in Gansu Province in the itinerary. Mr. Kato’s friends all wanted to visit Dunhuang. We naively thought it would be convenient since it was in the same province, but after the trip we realized that this assumption came from not understanding the vastness and diversity of China. Of course, we were delighted at the chance to visit Dunhuang as well. In this way, Mr. Kato gathered a group of about seven people that included his friends and acquaintances, and together with Yukari, myself, and Mrs. Kaku, our travel agent, a group of ten set out on this journey.

Our group of ten first headed to Shanghai, where the 2010 Shanghai World Expo was being held from May to October. Mr. Kato and Mrs. Kaku arranged about two hours for us to see at least part of the Expo. As reported in Japanese newspapers, the pavilions of Middle Eastern countries such as Saudi Arabia, showcasing advanced technologies, were extremely popular and required long waiting times.

Pavilions of China, Korea, Europe, and the Americas, including countries like Mexico, as well as India and the more developed nations of Southeast Asia were also crowded. Fortunately, Yukari and I were able to spend time more leisurely at the pavilions of countries we were personally fond of, such as Mongolia, Myanmar, and Central Asian nations of Uzbekistan, Tajikistan, and Kyrgyzstan. We were both very satisfied. [edited March 25, 2026]

According to Mr. Kato, from Shanghai we would fly to Lanzhou in Gansu Province. Five years earlier, he had flown from Beijing to Lanzhou and then traveled by train, transferring along the way, all the way to Dunhuang. Spreading out a map of China, he showed us that Gansu Province borders Mongolia and the Xinjiang Uyghur Autonomous Region to the north, Inner Mongolia to the east, and Qinghai Province to the west. Gansu is known as part of the Silk Road and is largely desert, but mountain ranges exceeding 5,000 meters stretch from east to west. Because glaciers and snow remain year-round, the meltwater creates vast oasis regions within the desert.

From Lanzhou, we would travel by train to Guazhou, and from there transfer again to reach Dunhuang. In Japan, Dunhuang is well known and quietly popular for its culture, history, religion, art, tourism, and natural beauty. In China, it is said that Dunhuang is “the tourist destination most loved by Japanese people.” Many among my family, relatives, and friends also had a strong historical and cultural interest in, or admiration for, Dunhuang.

Yukari and I had told Mr. Kato that we wanted to visit Gansu Province because we had promised to meet again with people we had previously met in Hokkaido during university exchanges and technical training programs, such as those on geothermal energy in Sapporo. From the late 1990s onward, during the roughly twenty years when Jiang Zemin and Hu Jintao served as presidents, China promoted a policy known as “Western Development,” under which personnel from less-developed regions were sent abroad for training. Hokkaido in Japan was chosen as one of the successful models for regional development.

We wanted to visit Lanzhou, the urban center of Gansu Province, and also Hezuo, which was said to be about a three-hour drive from Lanzhou. Although we had heard that Dunhuang was also in Gansu, we later learned that even within the same province, the scale of Gansu is exceptional even by Chinese standards. The plan was to travel by car from Lanzhou to Hezuo, which was expected to take about three hours one way. However, in 2010, road conditions were poor in some areas, and the journey was not so simple. Chinese experts in energy and regional development, whom we had met during training in Sapporo, expressed concern about this. None of them had ever been to Hezuo.

Among Mr. Kato and his friends, some mentioned that they had developed a deep interest in and familiarity with Dunhuang after watching the long-running NHK television series “The Silk Road” in the 1980s. The program featured the stone statues of the Mogao Caves and murals reminiscent of those found in Nara and the Yamato region of Japan. About 1,400 years ago, the Tang dynasty monk Xuanzang (Tripitaka) defied a ban on leaving the country and traveled to India in search of Buddhist scriptures. He spent sixteen years there, copying texts and deepening his studies, before bringing the scriptures back to Tang China. After returning, he devoted the rest of his life to translating these texts from Sanskrit into Chinese. He also authored “The Great Tang Records on the Western Regions,” the travelogue that later inspired the novel “Journey to the West.”

It is recorded in Xuanzang’s own writings that he passed through the Dunhuang region on his journey to India. One of the places he described is Crescent Lake (Yueyaquan), an oasis that still exists today.

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