ラオスの日本青年海外協力隊-JOCV in Laos (JPN/ENG) 

International Exchange
at Lang Xang hotel (former National guest house) in Vientian , Laos
「象のコレクション」のなかで、「私は1974年の12月から95年の1月にかけて、ベトナム戦争の最中、ベトナムの友軍として戦闘中だったラオスのビエンチャンに滞在したことがある。最初で最後のテレビのレポーターで、その間ランサンホテルに宿泊した」と書いた。
この経験は私が、日本の青年海外協力隊(JOCV)の広報番組のレポーターとして取材班に参加したからだった。日本シネセルの静永純一社長(夫人は藤村志保さん)のご紹介で、TBSに宝官正章氏を訪ねた。この番組制作は、TBS系列のTUC(テレビマンユニオンコマーシャル)が請け負い、デレクター、アシスタントディレクター、カメラマンと私の4人のチームで10日間から2週間の予定でラオスに行き、青年海外協力隊の活動を30分のTV番組にまとめて日本で広報することだった。
 この年、1974年の8月1日に、日本の海外移住事業、海外への技術協力、青年海外協力隊の3事業が、国際協力事業団(JICA)に統合された(注)。新しい組織になった国際協力事業団やJICAという名前は一般には知られていなかったが、青年海外協力隊(JOCV)は、少なくとも私はJOCVを知っていた。末次一郎氏の著書「未開と貧困への挑戦―前進する日本青年平和部隊  (1964) 」で初めてその構想を知った。

青年海外協力隊事務局の伴正一事務局長に、番組を制作する宝官正章TUC社長兼番組プロデューサーに同行してご挨拶に行った。その後、ラオスについて現場も研究でも第一人者となられた阿部憲子先生の、これからラオスに赴く隊員の方々のためのラオス語研修を見学させていただいた。
宝官さんは、TBS報道部のディレクターで活躍された後退社し、テレビマンユニオンの創設者の一人になり、私がお会いした時はテレビマンユニオンコマーシャル(TUC)の創立者だった。キリンビールの「麒麟伝説」などでCMの流れを変えた革命児だったとずっと後になってから知った。
TBSの中を、宝官さんの後をついて歩いていると、有名な俳優やタレントたちから「宝官さ~ん」と敬意と親しみをもって声をかけられていた。宝官さん自身が外見も俳優やタレントに負けないカリスマ性があった。次第に分かったことだが、宝官さんは1968年、ベトナム戦時下の報道で、政府とTBSの報道のはざまで一石を投じたとされ、上述のように、その後TBSを去ってテレビマンユニオン創設者の一人となり、さらにTUCを創設された。同じ時代をともにした一人として、私には政治とTBSの報道番組との困難な状況を見聞していたため、宝官さんの姿勢に強く共感した。その方がTBS退職まもない時期に、プロデューサーとして撮ったドキュメンタリーにレポーターとして参加できたのは、私にとっては幸運だった。私はこの番組がきっかけとなり、JICAを知り、1977年に外務省とJICAが設立した、財団法人国際協力サービス・センター
[現・日本国際協力センター(JICE)]で、国際協力や青少年交流、後には留学生の仕事に関わるようになった。

上記放映番組は次の通り。

青年海外協力隊ラオス1974年作品
1974年の協力隊員の活躍を紹介するドキュメンタリー番組1975年5月の共産革命によって外国人が退去させられる直前の協力隊員たちに活動の一端が垣間見られる。
 
As mentioned in my previous post Elephant collection, I stayed in Vientiane, Laos from late December 1974 to early January 1975, while Laos was fighting in the war as an ally of Vietnam. This was my first and last time as a television reporter. I stayed at the Lan Xang Hotel during that time.
The purpose of my stay in Vientiane was to report about a public relations program for the Japan Overseas Cooperation Volunteers (JOCV), showing what they are doing.
The program was produced by TUC (TV Man Union Commercial), a TBS affiliate, and a team of four, including the director, assistant director, cameraman and myself. We went out for about 2 weeks.

On August 1st, 1974, the Overseas Immigration project, Overseas Technical Cooperation, and Japan Overseas Cooperation Volunteers were just merged to form a new organization: the Japan International Cooperation Agency (JICA). JICA was not generally known, but I knew about the Japan Overseas Cooperation Volunteers (JOCV).

Accompanied by Mr. Masaaki Hogan, I went to greet Mr. Shoichi Ban, Secretary General of the Japan Overseas Cooperation Volunteers Secretariat. Afterwards, I had the opportunity to observe a Lao language training course for future members of JJOCV in Laos, conducted by Ms. Noriko Abe, who has become a leading expert on Laos both in the field and in her research.
  Mr. Hogan, President and Program Producer of TUC, who produced series of programs for JOCV, also produced our new film in Laos. 
As for TUC, Mr. Hogan left TBS after working as a director of the news department and became one of the founders of the TV Man Union. He was also the founder of the TV Man Union Commercial (TUC) when I met him.
I learned much later that he was a revolutionary who changed the course of commercials from the medium of advertising to Kirin Brewery's Kirin Densetsu.
I was fortunate to be able to participate as a reporter in a documentary filmed by him as a producer shortly after he resigned TBS.
As I followed Mr. Hogan around TBS, famous actors and TV talents would call out to him with respect and friendliness, "Mr. Hogan~!". Mr. Hogan himself was as charismatic in appearance as the actors and TV personalities. As I gradually learned, Mr. Hogan is said to have caused a stir in 1968 when he reported on the Vietnam War between the government and TBS, and as mentioned above, he later left TBS to become one of the founders of the TV Man Union and then founded TUC. I strongly sympathized with Mr. Hogan's stance, as I had witnessed the difficult situation between politics and TBS news programs during our time together. It was my good fortune to be able to participate as a reporter in a documentary that he shot as a producer shortly after his resignation from TBS. 

This program led me to learn about JICA, which was established by the Ministry of Foreign Affairs.
The International Cooperation Service Center (now known as the Japan International Cooperation Center (JICE)) was established by the Ministry of Foreign Affairs (MOFA) and JICA in 1977.
I began working in international cooperation, youth exchange, and later on international students at the International Cooperation Center (now JICE).
参考文献・資料
テレビマンユニオン編『テレビマンユニオン史1970−2005』 

注
1954年	 1月 ㈶日本海外協会連合会設立
	 4月 ㈳アジア協会設立
1955年	 9月 日本海外移住振興㈱設立
1962年	 6月 海外技術協力事業団(OTCA)設立
1963年	 7月 海外移住事業団(JEMIS)設立
1965年	 4月 OTCA、日本青年海外協力隊事務局(JOCV)設置
1974年	 5月「国際協力事業団法」公布
         8月 国際協力事業団(JICA)設栗

ビエンチャンの光景

1974年12月、着陸したラオスの空港は、滑走路だけでなく空港全体が赤土の、鮮やかなレンガ色で覆われていた。そしてビエンチャンは緑の樹木と白い塀と建物が並ぶ美しい町だった。

ラオスの国旗は「ランサン」すなわち「百万頭の象」を象徴するように、赤を背景に白い三頭の象が描かれていた。国旗だけでなく、銀製や木彫りの工芸品や、お土産の品々も、このデザインがラオスを代表する図柄で、美しく、伝統を感じさせ、強い印象を受けた。

会報誌「若い力」を初対面の待ち合わせに手に持つことが、JOCVの習わしだったようだ。ビエンチャン電話局の前でJOCV隊員の畑野耕さんと升澤俊司さんと合流した。二人とも日本電信電話公社(当時はまだNTTとは言わなかった)に在籍のまま、JOCV隊員として活動できる、JOCVとしても理想的な姿だった。畑野さんと井澤さんの技術協力に対する熱意とラオスの人や社会に接する純粋さは私の想像を超えて圧倒された。私はどちらかといえば「国際協力」に当時は懐疑的だった。しかしラオスの、技術協力の現場は、特にJOCVは二国間関係、ラオスの社会状況、技術協力の相手側、様々な制約のなかで、毎日考えながら試行錯誤も経て、前進しているのだという実感と確信を得た。2019年8月に、畑野さんと升澤さんに東京の国際協力の集まりで45年ぶりにお会いした。最初の出会いの新鮮さのためか、ラオスという継続する共通の関心事の賜物か、途切れることなく話が続いた。さらも二人とも、これから先も、まだまだ青春時代の活動を形を変えて、自分たちの特技を鍛えて、日本社会での異文化交流や技術を活かすことを続けられる様子だった。

帰国まで2~3日を残していた朝、大貫ディレクターが、山崎カメラマン、田中AD、私に、東京の宝官プロデューサーが、これまでのフィルム構成を見て、電信電話の取材は内容はよいが、番組全体がこれだけでは単調だとOKがでなかったと伝えた。他のテーマを追加することになり、これからJICA事務所に相談に行くという。そして沼田登紀江さんを紹介され、彼女が教えている王立家政学院(フォンチャンヌー家政学院)を訪問することが決まった。女子生徒たちにもインタビューすることになったのはよかったが、インタビュー内容に「好きな人がいるか」とか「結婚したいか」など、私が質問するように言われたが、それが私にはつまらない質問だと思えて大いに不満だったことを覚えている。ただし、番組の最後には自分が考えたことをそのまま話していいと言われた。沼田さん(現在は綾部さん)とは、その後実際にはお会いできなかったが、綾部さんはJICAで仕事をされていたので、サモアや北陸支部などにおられたときに、連絡し合った時期があった。綾部さんは、家政学院で生け花、音楽、手芸など文化や専門教育を担任していた。生徒たちは、高等教育を受けて、特に語学や文章作成などが優れていたため、王制から社会主義移行の時期に、政府から重要部署に配置されたと人づてに聞いたそうだ。私が沼田さんたちに会った1974年12月から75年1月にかけて、政府は王制派と、社会主義を目指すパテトラオの連立政権から、無血革命(静かな革命)を経て政権はパテトラオに移ろうとしていた時期であったのだ。ビエンチャンから離れた新教育の拠点にも派遣されたのではないかと、消息をとても心配していた。あんなに可愛がっていた少女たちだから当然のことだ。どこにいても、利発で素直な女子学生たちが大切にされないわけはない、と私は心のなかでつぶた。ビエンチャンは静かさを装いながら、政権移譲が行われていたのだった。ランサンホテルのレセプションにいた2人の青年が、私が夕方、ホテルの中庭に立っていると、普段と変わらないゆったりとした物静かな声で言った。「明日、私たちはサムネワに出発します」それは初めて聞く名前だった。「サムネワってどこですか?」「北の方です。ベトナムとの国境に近いところです」。悲壮感はまったくなく、仕事上、当たり前だというように微笑みながら言った。王制時代の迎賓館であったランサンホテルの有能な人たち。フランス語も英語も話すホテル内のスタッフはいつのまにか去って行ったことは私の目の前で起こっていた。そのときは、さすがの私も戦争に関わる異動かもしれないと感じた。政権が移行されることは一般にはまったく知られていなかった。日本に帰国して時折思い起こし、想像を巡らした。ラオスの新しい時代のために、人材登用が必要だったのだ。教育を受けた人間は排除された国もあるなかで、ラオスは教育を受けた人材は必要とされていたのだと想像した。本当にそうだったと確信している。

私も長い年月をかけて、それも断片的に1974年当時のラオスのベトナム戦争での位置づけと何が起こっていたかを知るようになった。ベトナム、カンボジア、ラオスの実情は、覇権争いをしていた国々からの、今でいうフェイクニュース合戦もあって、日本の報道も混乱を極めていた。ベトナムとの国境の森林地帯は、ゲリラ戦の主戦場となって、ラオス側も地雷で埋め尽くされていた。その撤去作業では欧米のボランティアの活動が喧伝されるが、日本から派遣されている自衛隊OBが人知れず主力になっていることは感謝されている。撤去の終わりが見えるまでに何十年、さらにその先何十年かかるかわからないと途方にくれた体験が、自衛隊OBの所属団体のWeb会報誌に載っていた。日本の新聞報道によると、1968年からのクラスター爆弾による攻撃はベトナムだけでなくラオスに向けても行われ、最新の公表では35万人を超えるラオス人が犠牲になっている。同時に人間だけでなく、森に生息していた野生ゾウをはじめ、あらゆる生きものたちも犠牲になったことが明らかになってきた。

ところで、この仕事で宿泊した、ビエンチャン市内のランサンホテルは、玄関にも、ロビーにも、裏庭にも数々の象の置物が備えられていた。客室の木製の扉は光沢と厚みがあって、一つひとつの扉の内外両面に、象の彫り物がされていた。1990年以降は、ビエンチャン市内に少しずつ新しい機能的なホテルが増えていき、ランサンホテルは、次第に国の迎賓館の役割を終えて、外資の経営に貸し出された。外資移行後のランサンホテルの客室の扉は新しいもの取り換えられて、そこには彫られた象の姿はなかった。象の工芸品のコレクターによってすべてが愛蔵されていることを願うばかりだ。

The Laotian national flag depicted three white elephants on a red background, symbolizing “Lan Xang,” or “a million elephants”. Not only the flag, but also silver and wood carved handicrafts and souvenirs, all of which are representative of Laos, were beautiful, traditional, and made a strong impression on me.

It seemed to be the JOCV’s custom to hold the newsletter “Young Power” in our hands at our first meeting. We met up with JOCV members Tagayasu Hatano and Shunji Masuzawa in front of the Vientiane Telephone Station. Both of them were still employed by Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation (not yet called NTT at that time) and could work as JOCV members, which was ideal for JOCV.
Mr. Hatano and Mr. Masuzawa’s passion for technical cooperation and their genuine approach to the Laotian people and society overwhelmed me beyond my imagination. I was rather skeptical of “international cooperation” at the time. In August 2019, I met Mr. Hatano and Mr. Masuzawa for the first time in 45 years at an international cooperation gathering in Tokyo. Perhaps it was the freshness of our first encounter, or perhaps it was our ongoing common interest in Laos, our conversation continued uninterrupted. They still seemed determined to continue to contribute to the society, to develop their own special knowledge and skills, and to continue cross-cultural exchanges and application.

Two or three days prior to our return to Japan, director Onuki told cameraman Yamazaki, AD Tanaka, and myself that producer Hogan in Tokyo had looked at the film structure so far, and although the wire phone coverage was good in content, he had not given the OK because he thought the program as a whole was too monotonous. Mr.Onuki decided to add other themes and said he would now go to the JICA office for consultation. He then was introduced to Ms. Tokie Numata and we decided to visit the Royal Academy of Home Economics (Fon Chanh Nhu School of Home Economics) where she teaches.

I was glad that female students  were to be interviewed as well, but I remember that I was told to ask them questions , such as “Do you like someone?” or “Do you want to get married?” which I found to be boring questions and this greatly frustrated me. However, at the end of the whole program I was told that I could speak freely. I never actually met Ms. Numata (now Mrs. Ayabe) after that, but Mrs. Ayabe was working for JICA, and there was a time when we were in contact with each other when she was about to work in Samoa and the JICA Hokuriku office.

Ms. Ayabe was in charge of cultural and specialized education such as ikebana, music, and handicrafts at the School of Home Economics. she said he heard from people that the students were placed by the government in important departments during the transition from the monarchy to socialism because they had received higher education and excelled especially in languages and writing. When I met Numata and his colleagues from December 1974 to January 1975, the government was about to shift from a coalition of the monarchy and the socialist Pathet Lao government to the Pathet Lao government after a bloodless revolution (a quiet revolution). she was very worried about their disappearance, wondering if they had been sent to the new education centers away from Vientiane.” It was only natural, since she loved the girls and thaught them with such a passion” I murmured to myself, “Wherever they are, they are smart and honest schoolgirls, and there is no reason why they should not be cared for” Vientiane was undergoing a transition of power under the guise of quietness. As I stood in the courtyard of the hotel in the evening, two young men at the reception of the Lan Xang Hotel said to me in their usual relaxed, quiet voices, ” Tomorrow we are leaving for Samnawa,” they said, a name I had never heard before. ‘Where is Samnewa? It’s in the north, near the border with Vietnam. He smiled, as if it was a natural part of his job. The competent people at the Lan Xang Hotel, which was a guest house during the monarchy— The fact that the staff in the hotel, who spoke both French and English, had left at some point was happening right before my eyes. At that time, I felt that I might be involved in a war-related transfer. The fact that the transition of power was to take place was completely unknown to the general public. After returning to Japan, I occasionally recalled it and imagined it. It was necessary to promote human resources for a new era in Laos. I imagined that while educated people were excluded in some countries, Laos needed educated people. I am convinced that this was indeed the case.

Over the years, I have come to know Laos’ position in the Vietnam War and what was happening there in 1974 in fragments. The actual situation in Vietnam, Cambodia, and Laos was also confusing to the Japanese press, due in part to what is now called “fake news” that were created among the countries that were fighting for supremacy.

Everyone reiterated that Laos was a friend of Vietnam, but it would be several years before the reality of the situation could be outlined. The forested area on the border with Vietnam had become a major battleground for guerrilla warfare, and the Laotian side was also filled with land mines. In addition to the activities of Western volunteers clamored for the removal of these mines, the Self-Defense Force(SDF) alumni dispatched from Japan also had devoted for the disposal of the explosive mines, which went unnoticed by the public.

It was reported in the web bulletin of the SDF alumni’s organization that it would take decades and decades to remove all the mines. According to Japanese newspaper reports, cluster bomb attacks since 1968 have been directed not only at Vietnam, but also at Laos, killing over 350,000 Laotians, according to the latest published figures. At the same time, it has become clear that humans, wild elephants, and all other living creatures that inhabited the forests were sacrificed.

On a side note, the Lan Xang hotel in Vientiane where I stayed on this business trip had numerous elephant figurines at the entrance, in the lobby, and in the backyard. The wooden doors of the guest rooms as well as halls and restaurants were shiny and thick, and each door had elephant carvings on both sides. 1990s saw a gradual increase in the number of new functional hotels in Vientiane, and the Lan Xang hotel gradually outgrew its role as a state guesthouse and was leased to three reliable foreign business persons with a long term contract. After receiving the foreign investment, there were no longer carved elephants on most of the doors of guest rooms and halls at the Lan Xang hotel. One can only hope that all are cherished by collectors of elephant artifacts.

 

 

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