資料1ミッドウェー海戦;「赤城」の最期 Reference 1 The Battle of Midway: Final Days of the “Akagi”

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「赤城」の最期

                                                                                                                                                                              山野幸吉

もうかれこれ30年の昔の話である。

私が築地の海軍経理学校で補修学生としての訓練を終え、第一航空艦隊司令部付主計士官として空母「赤城」に乗り組み、ミッドウェー近海の厚い霧に包まれたように、遠く薄くかすんで、時も日もまた経緯も、さだかに思いだせないほどである。大学を出たばかりで、短期間の訓練を経たばかりのわたしには、MI作戦の全貌はおろか、この作戦に参加する部隊や艦名すらするよしもなかった。それらについては、われわれが柱島を出撃してから、専任の杉山續主計中尉(生徒出身)や若い士官からガンルームで聞かされたものである。しかし、かえりみて、このミッドウェー敗戦は、日本海軍にとってはもとより、若い、いささか気負いだっていたわたしにとって、まったく衝撃的な出来事であり、日本の戦局に、私のその後の人生観にもっとも大きな影響を与えた海戦であったという意味からも、霧の中の晴れ間のように記憶のさだかな箇所を中心に、当時の思い出を、私の体験記としてつづってみたいと思うのである。だから、これは資料や戦史を基礎にした戦記物語りではない。当時わたしが経験した「赤城」の敗戦記であることを断っておきたい。

「赤城」が柱島を出撃したのは確か五月二十七日であった。たまたま、「赤城」の庶務主任を拝命した沢登君と、「赤城」を探し求めて、柱島で乗艦してから一週間もたっていない。

美しい島島にとり囲まれた、絶好の泊地、柱島、「赤城」「加賀」といった超弩級の空母や「霧島」「金剛」「榛名」「扶桑」といった戦艦群がその偉容を誇り、そして、「赤城」のすぐそばには六万数千トンといわれる新鋭の巨艦「大和」が、連合艦隊司令長官旗をはためかせていた。わたしはこの柱島でみた、そして感じた帝国海軍の圧倒的な偉容、その輝かしい開戦以来の戦果、そして、それ故に全国民からよせられた無限の期待と信頼感を忘れることはできない。

この一航艦(「赤城」「加賀」)二航艦(「飛龍」「蒼龍」)を中心とする機動部隊の出航の前であったか、後であったか、忘れたが、後甲板に総員集合がかかり、そこで艦長からミッドウェー作戦に出撃する旨の訓示があった。わたしは豊後水道を静かに太平洋に出ようとする「赤城」の舷側から、「赤城」につづく「加賀」「飛龍」「蒼龍」のかすんだ、しかし頼もしい空母群を眺めながら、胸のひきしまる興奮を覚えたものである。

どうしたものか、「赤城」が出撃してから、ミッドウェー海戦を迎えるまでの一週間ばかりの艦内生活の記憶はきわめて薄いのである。わたしが乗艦してからの期間が短く、しかも司令部付であるから「赤城」乗組員との交際がなかったためかもしれない。とくに、わたしの配置は敵信班といって、「赤城」の前下部電信室、船倉甲板とかいう一番船底に近い薄暗い部屋であった。そうでなくとも、四万二千トンの巨艦である「赤城」の内部はきわめて複雑怪奇で、初めての艦船勤務であるわたしにとって、どこに行くにも一回でたどりつくことは容易でなかった。まして、前下部電信室はマンホールを三つもくぐりぬけなければならず、戦闘配備についた後などは、マンホールをさがすことさえ並大抵ではなかった。幸いに、杉山主計中尉とわたしが同室であったので、かれの適切な指導で、この複雑な艦内の様子に比較的早く習熟することができた。

敵信班には、特務中尉の下に六、七人の電信兵がいて、敵の発信をキャッチして、敵艦の呼出符号により、あるいは敵の暗号書によって、敵艦の艦種、位置または情報を知り、これを艦橋の司令部に連絡するところである。いわば電信による司令部の頭脳といってもよいであろう。

今思い出しても楽しかったのは、短い間ではあったが、ガンルームでの生活であった。杉山主計中尉から碁のてほどきをうけたのもここであったし、飛行機乗りの、あけっぴろげなS通いの話や、命知らずの手柄話を聞かせてくれた若い士官たちも今や昔でなつかしい。

しかし、それも6月にはいって、ミッドウェーがだんだん近くなるにしたがって、日一日と緊張してゆく様子がありありとうかがわれ、話も今度の作戦の成否についての論議とか、ミッドウェー島政略の目的は何かといった話題が多くなっていった。

六月の三日ごろであったか、わたしは一人で「赤城」の甲板に出て夜空を仰いだことがある。あたり一面深い霧につつまれて、視界はほとんどきかなかった。太平洋の大きな波のうねりが巨艦をゆっくりとおし上げてゆくようで、腹にこたえるようであった。艦はエンジンの音をひびかせて、ステッデーに一路ミッドウェーに直進している。六月五日がミッドウェー攻略の日であることは聞いていたし、敵がもうすぐ近くにせまっているように感じた。敵にこの大攻略部隊が見つからねばよいがと祈らざるをえなかった。この霧が、あるいは、天祐であるのかもしれないとも思った。ふと見上げると空の霧がはれて、そこ、ここに星が不気味に輝いていた。わたしは何かしら、人間のちからではどうにもならない運命のようなものを感じた。そして、この、世界に誇る大航空艦隊は必ず敵を撃滅してくれると自分に言い聞かせながら、部屋に降りていった。

明くれば六月四日、いよいよ明日はミッドウェー攻撃の日である。艦は今や二十四、五ノットの速力で、まっしぐらにミッドウェーに向かっている。ガンルームでは、敵機に触接されているとか、明日の攻撃は相当てごわいとかいう話をかわす士官もいて、今までにない緊張感がただよっていた。

 

つづく

 

Final Days of the “Akagi” Kōkichi Yamano

It has been nearly thirty years since then.
After completing my training as a supplemental student at the Navy Accounting School in Tsukiji, I was assigned as a paymaster officer attached to the First Air Fleet Headquarters and boarded the aircraft carrier Akagi.
Now, the passage of time, the specific dates, and even the sequence of events are all so faint, as if shrouded in the thick fog off Midway, that I can hardly recall them clearly.

Fresh out of university and only recently trained, I had no understanding of the overall MI operation, nor was I even aware of the names of the units or ships participating in the mission.
I learned about such matters only after our departure from Hashirajima, through conversations in the gunroom with the designated paymaster lieutenant, Sugiyama Zoku (a graduate of the Naval Academy), and other young officers.

Looking back, this defeat at Midway was not only a profound shock to the Imperial Navy, but also to me personally—a young officer still full of eager determination. It had a decisive impact both on Japan’s wartime situation and on my own subsequent worldview.
It is precisely for this reason that I wish to recount my memories, centered on those parts that remain vivid in my mind like clearings in the fog, and present them as a personal narrative of my experience.

Let me be clear: this is not a war chronicle based on official records or historical documents. It is a personal account of the defeat of the Akagi, as I experienced it.

The Akagi set sail from Hashirajima on May 27, if my memory serves me right.
At the time, I had just boarded the vessel at Hashirajima, together with Mr. Sawatari, who had been newly appointed as the ship’s general affairs officer, and barely a week had passed since then.

Surrounded by beautiful islands, Hashirajima was an ideal anchorage. Super-dreadnought carriers like Akagi and Kaga, along with the battleships Kirishima, Kongō, Haruna, and Fusō, all displayed their imposing grandeur.
And right beside the Akagi stood the newly built 60,000-ton behemoth Yamato, flying the flag of the Commander-in-Chief of the Combined Fleet.

I can never forget the overwhelming majesty of the Imperial Navy I witnessed and felt at Hashirajima—the brilliance of its achievements since the start of the war, and the boundless expectations and trust placed in it by the entire Japanese nation.

 

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