異文化交流 Cross-cultural Exchange (JPN/ENG)

International Exchange

異文化交流

背景

1975年の8月1日、日本は国際協力事業団(JICA)を設立し、海外へ青年ボランティアを派遣する青年海外協力隊(JOCV)、日本から海外への移住事業、主として各省庁の現役や退職した専門家による技術協力などに関わってきた団体を、JICAに統合した。日本は1954年のコロンボプランに加盟し、これによって戦後初めて海外援助国と認められ、翌年から政府開発援助(ODA)、すなわち政府予算による海外援助を開始した。JICAは海外への技術協力を、これまでも関わってきた実績がある、農水省、建設省、厚生省、郵政省、警察庁などと協力して、次第に実施機関として活動を始めた。ちょうどその頃、私はJICAと出会ったのだった。

私が、ラオスでの青年海外協力隊のTVドキュメンタリー番組のリポーターの仕事を終えて、JICAでお世話になった方々にご挨拶をして帰ろうとしていたときに、研修事業部がともかく忙しくて人を募集しているので、寄ってみてください、と当時の桜井監事と松原総務部長さんに言われた。それではとちょっとした好奇心もあり、研修事業部の研修第3課というところを訪ねた。それがJICA設立後5か月後の1976年1月中旬だった。

日本は省庁だけではなく、民間会社はアジア、アフリカ、中東でもビジネスや技術協力はやってきたわけだから、人材もノウハウも蓄積されていた。しかしそれをJICA方式に整えていくのは、現場も後方支援(ロジスティクス)も大変な一大事だった。

私は研修第3課に行くと、天願課長という方が、数日後、研修監理員という仕事の説明会と簡単な日本語と英語の面接があるのでそれを受けるように勧められた。問題なければ研修監理員という仕事に登録されて、導入訓練が1週間ある。そして仕事は4月から開始されるということだった。

こうして、私は1976年の6月から1977年の12月まで、主として東南アジア、アフリカ、中東、中南米などから来日した混成の集団研修(通常1コース3か月間、15名から18名)のJICAの研修監理員として、農業普及/農村生活改善普及・灌漑/水資源(タイ、ビルマ、インドネシア、フィリピン、マレーシア、アフガニスタン、パキスタン、バングラデシュ、インド、タンザニア、マラウィ)、電話電線敷設(パナマ、キューバ、ベネズエラ、イラク、パキスタン)、コンビューター技術(韓国、シンガポール、ネパール、フィリピン、イラン、ビルマ、スーダン)などを、現場で担当した。この1年6か月で、それぞれ3か月間東京での講義も地方での出張も同行したので、今でも顔と名前と国名は思い出せる。私が知り合ったのは約110人の農業と、当時の先端技術であった通信やコンピューターの中核人材と期待されてそれぞれの国で選抜された行政官たちだった。

 

当惑したこと

1 常磐ハワイアンセンター

 

1か月に1度、東京の三越本店の特別食堂で開かれる東京道産酒の会合でのことだった。

「山野さん、常磐ハワイアンセンターってご存じですか?」と元三越札幌店の支店長で現在、上記の東京道産酒の会の世話人、堀田氏は前回欠席した私に声をかけてくださった。私に「その社長さんが、先月の道産酒の会で、とてもよい講話をされたのですよ。そして常磐ハワイアンセンターが発展してきた実話が映画化されて、近く封切られるそうです」。

「常磐ハワイアンセンターはよく知っていますよ。私は20年前に2度か3度行ったことがあります!」なつかしさで一杯だった。それは1970年代後半だったから本当は20年をずっと遡るのだが、控えめな数字で答えた。堀田さんは、私が常磐ハワイアンセンターを知っているどころか、なつかしいと言ったことに驚いた様子だった。一般的には常磐ハワイアンセンターは、日本映画「フラガール」が日本アカデミー賞作品賞はじめ各部門で受賞し、全国的有名になるまで、ほとんど知名度はなかったからだ。実は私にとっても、行ったことはあったが、「常磐」という聞きなれないローカルな地名が、茨城県か福島県のどちらにあるのか定かではなく、長く謎の場所であった。たしかに仕事では欠かせない訪問先だったのだが。

私も研修監理員として担当した、農業分野の3か月間の研修日程には、必ずと言っていいほど、一度は金曜日の早めの3時か3時半に研修を終えると、新宿からバスで常磐ハワイアンセンターに行くスケジュールが組み込まれていた。2時間くらいはかかったと思うが、研修員は東京を離れて、車窓から日本の田畑の広がりや日本の住宅地など見る機会でもあり、バスに揺られて仮眠もでき、評判はよかったようだ。ただ私も私以外の研修監理員も、常磐ハワイアンセンターについては同じ質問を研修員から受けたのだった。「私たちは、日本に来ているのに、アメリカの文化を見に行くのはなぜですか?」ただ不思議に思って質問するのだった。

「それは私もそう思います」と私は答えたいのだが、それはもちろん立場上できなった。そうかと言って、リゾート施設なので施設案内以上に、特に調べることもしなかった。

常磐ハワイアンセンタ―に到着すると、そこは家族連れや会社の社員旅行のお客さんたちが席につこうとしていた。街の映画館が3つくらいは入る規模の会場で、客席は満席の様子だった。

ハワイを背景にした舞台でハワイアンダンスを楽しむのだが、ダンスはハワイのフラダンスとはちょっと違っていた。スカート丈の長い、鮮やかなハワイアンドレスの女性たちが一列か2列に並んで、ハワイアンソングに合わせて、ハワイ風のダンスをするというもので、エレガントな雰囲気だった。

地元や近隣の各県からのお客さんが中心のようで、このハワイアンセンターは温泉としても人気があった。まさに和洋折衷の観光地として発展しているようだった。私たちが訪問した時、外国人はJICAの研修員の団体しか見当たらなかった。研修員たちは、ハワイアンも温泉も相当当惑しながらも1泊2日のハワイアンセンターを体験した。温泉もハワイアンもやや押し付けられた感があったが、食事は洋食、和食、和洋折衷で好きなお料理を選べたし、イスラム対応も事前に連絡してあったので、この見学は日本のハワイにとまどいながらも楽しんだのではないかと思う。

 

冒頭の堀田さんはこの常磐ハワイアンセンターのもっとも興味深い話を、教えてくれた。

運営をする常磐興産株式会社社長の講演では、明治時代(1884年)から続いた地元の常磐炭鉱が閉鎖することになった。その代替の産業として、地元の潤沢な硫黄温泉も活用しつつ有数のアミューズメント施設を構想した。「ハワイアンセンターに行くには、都内は新宿から無料バスが出ているそうですよ」。最後に付け加えた堀田さんの言葉は、「なるほど!」と私も謎の一つが解けた。それはJICAにとっても魅力あるプログラムだったに違いない。研修の移動で使うバスは借上げだったので、無料バスも区別がつかなかった。

 

1966年にその当時の日本人の海外旅行の憧れだったハワイをアミューズメントのテーマに選び、次第に観光地として全国的に人気になったそうだ。

もし、私も含めて研修監理員がその背景を知っていたら、もっと研修員たちに日本の炭鉱の衰退と新しい観光産業への転換の成功例として、歴史的背景を説明できたのにと、残念な思いがした。

そしてさらに付け加えるとしたら、「ハワイ」は当時でもちょっと頑張ればハワイに海外旅行ができるという夢があった。同時にハワイは、日本人が成功の夢を持って日本から移住した人々が住む、日本とも歴史的に関わりが深い地でもあった。

こうして、JICA研修員には私たちは、常磐炭鉱から有数の観光地への産業転換の努力と成功の物語を伝えることはできなかったが、私自身は20年前答えられなかった回答が、思いがけなく舞い込んできたのだった。

ここで、「フラガール」で全国に知られるようになった常磐ハワイアンセンターの今は?と調べてみると、福島県いわき市の「スパリゾートハワイアンズ」とある。場所もハワイアンズも不変で、年間安定的に150万人以上が利用するそうだ。2018年の日本政府主催の国際会議=太平洋島サミットでは、歓迎行事などで協力し、2020年には、創業55周年を迎えたという。各方面をつなく無料バスは健在で、地道に発展を続けている様子で、私も今では常磐ハワイアンセンターにお世話になった一人として、人に解説できるほどになっていることを誇らしく思った。

ただ素朴なハワイアンセンタ―を知る者として、進化したスパリゾートハワイアンズに実際に行きたいかはちょっと考えることにする。

 

2 Paw さんのこと

ビルマ(現ミャンマー)のPawさんからも、3か月間の研修を終えて帰国したあと、一緒に研修監理員として仕事をした近藤氏と私にそれぞれ丁寧なお礼状が来た。Pawさんを思い出す度に、私には心残りがあった。

Pawさんは1977年6月から8月まで、「農地水資源」の研修コースに参加した。20人の研修員は、東南アジア、南西アジア、東アフリカ、中東そして中米から、それぞれの国から選抜された研修員だった。このプログラムは、灌漑工事、農業用水、排水路など参加者の専門や研修目的が広域に渡っていた。そのため日本の農林省構造改善局の木村課長がコースリーダーで、新入職員もオブザーバーで3,4人参加し、農林省の外郭団体からも職員が2名派遣されていた。3か月間の主な研修場所は、農林省の海外研修室だったが2週間に1度か2度は、日帰りできる首都圏だけでなく、1週間におよぶ研修旅行があった。専門テーマを実地に調査や見学するには農林省や都内の研究機関を離れて、地方の農業用水、ダムの工事現場、自治体、農協、農家訪問などが必要だったからだ。

移動のバスのなかで、近くにすわった研修員たちから、車窓から垣間見える日本風景や人々の生活、あるいは日頃の疑問などよく聞かれたものだ。研修監理員の近藤さんと私は、その場で相談しながら答えたこともあった。それは講師に質問する専門的な内容ではもちろんなく、普段、日本人にとっては当たり前で気が付かなかったことへの指摘や感想が多かった。

共通して言われたことには、地方で訪問した農林省の農業試験場はじめとする付属機関を訪れると、その事務所では所長も職員も統一された作業着を着て、トップも職員も同じ振る舞いをする。所長は部下に指示をするより、必要な行動を一緒にやってしまう。例えば机や椅子を所長も一緒に並べ替えたり、当時は灰皿がどこにも置かれていたが、所長がそれを机上に配ったり、黒板(ホワイトボード)のチョークを自ら調達に行きすぐ戻ってくる。慣れた様子で、こまごました仕事も自分でやってしまう所長がほとんどだったことには、驚いたり感心していた。大きな事務所であっても、背広を着た偉い人を見かけるのは稀れで、必要であればその場で、すぐ説明や実験を自らやって見せるような実務的な人材が豊富だと、口々に感嘆していたのを聞いて私は嬉しかった。

Pawさんが、来日後初めての研修旅行中、訪問先の農家から歩いてバスに向かうときに、私ににこにこしながら話しかけてきた。「私が子供だったとき、サクライさんという日本の兵隊さんが近くにいて毎日会った。一緒に遊んでくれて、日本語や日本の歌を教えてくれてやさしい人だった」。訪問したばかりのお宅では、小学校1年生と3年生の男の子も、はにかみながら一緒に家族が、お茶や数々のきれいな和菓子や果物で歓待してくださった。1時間あまり懇談した後、インドネシアの研修員がみんなを代表しておみやげを渡し、さらにお礼にと、母国の歌を2曲歌った。インドネシア民謡で日本でもよく知られている、「ブンガワンソロ」(Bengawan Solo)と,インドネシア民謡を日本人歌手の梶光夫が歌って日本でも、アジアの国々でも大ヒットした「かわいいあの娘」(Nona Manis Siapa Jang Punja)で、どちらも歌も歌い手も素晴らしく、喝采してさらにみんなももっと歌いたくなったのだが、お暇するしかなかった。

インドネシア民謡:ブンガワンソロ

Pawさんは自分が子供だったころのことを思い出したのだろうか。サクライさんに教えてもらった、日本語の日常会話を話したり、日本の歌に触れた後、「サクライさんに会いたいなぁ」とつぶやいた。それはただ懐かしい人を思い出したというだけでなく、自分の滞在中にサクライさんに本気で会いたがっているのだという気持ちが私には伝わってきた。戦後30年以上たっても、日本では戦争や戦場がどのようなものか、語る人はほとんどいなかったし、ようやく本が出版されて読まれ出したものがあった。研究者を除けば軍部の言う通りに報道した新聞しか資料が世に出ていなかったのである。

アジアの戦地に行った日本兵と子供の出会い。後々、戦争の終結を知らないで、密林の潜んでいた日本兵が帰国できなくなって、そのままアジアに残留した話は数々きいたことがあった。[20.11.2024 edited] 日本は、戦争中は軍部によって国民への情報・言論は、ラジオ・新聞を通して統制され、日本の敗戦後は、1945年から1952年の7年間、アメリカを中心とした連合軍(GHQ)によって、軍国教育を受けた日本人を民主化するために、教育も統治された。

日本が、東南アジアでは、アジアの人々と戦ったのではなく、欧米の植民地下の東南アジアを戦場にして、欧米と戦ったのだと聞いたのは、私の場合は、小学校の親友だった千恵ちゃんのお兄さんからだった。彼女の家に遊びに行くと、彼は東京教育大学(現;筑波大学)の学生で、卒業したら地理の先生になると言っていた。世界地図を広げて、「マレー半島は、戦争前は、ラオス、カンボジア、ベトナムはフランスの植民地、ビルマはイギリスの植民地、そしてインドネシアはオランダの植民地だった」と教えてくれた。続けて、「日本がこの地域で戦った相手は、アメリカ、イギリス、オランダなどの連合軍だった。しかし、東南アジアを戦場として巻き込んだことにはアジアの人々にあやまらなければいけない」。このような思想的なことを言う人は初めてだったので、今でも覚えている。

Pawさんのサクライさんの話で、何度も頭によぎったのはサクライさんを捜すもっと実際的な方法だった。思いついたのは主な全国紙に、掲載されている「尋ね人」という欄であった。地方から東京に出てきた人のための、地方の〇〇高校の同窓会や、東京で行われる〇〇県のイベントの開催のお知らせなどと同じコーナーにあった。おそらく家出をした人や消息不明者を新聞を使って連絡を待つというものだった。Pawさんにもう少しサクライさんについての情報を得て、この「尋ね人」欄に掲載できないか?という考えが、残り約2か月の研修期間中に私の頭を何度かよぎった。もし私が5年か6年以上の経験がある研修監理員だったら、なんとかサクライさんを捜すために、上司に相談し、新聞社や、日本とビルマの交流団体に相談したりできただろうか?

今改めて考えてみても、それはあの1970年代から1990年代では無理だっただろう。なぜなら当時私が関わったJICAの研修員受け入れ事業においても、日本政府は、アジア諸国からの研修員を日本に受け入れるにあたって、国内の研修現場に徹底させた事業の趣旨は、私も職場で文書で読んだり聞いたりした。「日本が戦後復興し、平和国家になったこと。そして最先端技術を保有する世界でGDP一位、二位を競う国となった今、技術協力によって、アジア諸国をはじめ開発途上国の発展に貢献する」ということだった。

Pawさんのような心温まる話であっても、「戦争」を呼び起こすような話題は、相談はできる雰囲気はなかったからである。今振り返ると、70年代以降約30年間は、今日では「自虐的歴史史観」と呼ばれ始めた教育の影響もあったためか、日本の有力メディアは、アジア諸国の前には日本人全員がお詫びしなければいけないということが前提かのようだった。日本政府が海外援助においても、日本の国益を主張しすぎて、アジアを侵害しないかを、厳しく牽制していた。さらにメディアはODAの、海外における円借款や無償資金協力によって、相手国に日本企業が進出し、環境破壊し、利潤追求を目的とすることを監視し、厳しい政府批判を展開していた。そこでODA所管官庁の外務省とその実施機関のJICAは、新聞はじめ報道機関には極めて注意深くプロジェクトを説明し、理解してもらわなければならなかった。

Paw さんは、研修コースの全期間、熱心に研修に参加し、満足して帰国したのはお礼の手紙を読んでも伝わってきた。サクライさんのことは、私がなんとかできないか私なりに考えたことは知らないかもしれない。サクライさんはPawさんの村に駐屯していたのか、戦争が終わってからビルマに住んでいたのか、そのようなことを聞くことはできるはずがなかった。日本人はお詫びしなければいけないので、戦争のことは知らないでいるしかなかったのである。

それなのに、Pawさんはサクライさんに会いたいって言っていた。勇気を出してPawさんに質問してみればよかった。聞いたら、サクライさんと会えることを期待させてしまうという私の思い込みもあった。期待などしていなかったかもしれないのに。

Pawさんは帰国間際に、思いがけなく、木製の象の置物をくださった。それは山口県の母方の菩提寺、普賢寺で大切に保管されている。私はミャンマーの象の彫り物や置物が好きだ。人々が象と一緒に身近に親しんできた地域の象は、眺めていると息づいているように感じる。この一対の象は、銅鑼を掲げている珍しい置物だ。近く普賢寺に行って、写真を撮ってきて、ここに掲載しようと思う。

 

Cross-cultural Exchange

Background

On August 1st, 1975, Japan established the Japan International Cooperation Agency (JICA) and integrated organizations that had been involved in sending young volunteers overseas (the Japan Overseas Cooperation Volunteers, or JOCV), immigration projects from Japan to overseas, and technical cooperation with mainly active and retired experts from various government ministries. Japan joined the Colombo Plan in 1954, and as a result was recognized as an overseas donor for the first time since the end of the war, and from the following year began providing Official Development Assistance (ODA), or overseas aid funded by the government. JICA gradually began to act as an implementing agency for technical cooperation overseas, in collaboration with the Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries, the Ministry of Construction, the Ministry of Health and Welfare, the Ministry of Posts and Telecommunications, the National Police Agency, and other organizations that had been involved in the past. It was around this time that I first came into contact with JICA.

When I was about to leave after finishing my work as a reporter for a TV documentary program on the Japan Overseas Cooperation Volunteers in Laos and saying my goodbyes to the people at JICA who had helped me, the then-Auditor Sakurai and General Manager Matsubara told me that the Training Affairs Department was busy and was recruiting people, so I should stop by. Therefore, partly out of curiosity, I visited the Department’s the 3rd Training Division. This was in mid-January 1976, five months after JICA was established.

Not only the ministries and agencies, but also private companies had been involved in business and technical cooperation in Asia, Africa and the Middle East so they had accumulated a lot of human resources and know-how. However, organizing it like the JICA system was a huge undertaking for both the frontline and backline support such as logistics.

When I went to the 3rd training division, a person called Mr. Tengan, the head of the division, recommended that I attend a briefing session for the training coordinator position and a simple Japanese and English interview, which would be held in a few days’ time. If there were no problems, I would be hired for the job of training coordinator and there would be a week of introductory training. The job would officially begin in April.

From June 1976 to December 1977, I worked as a JICA training coordinator on site for participants (usually 15 to 18 people per course, for three months) from Southeast Asia, Africa, the Middle East, Central and South America, etc., who came to Japan to study agricultural extension, health & hygiene for rural communities, and irrigation & drainage for agriculture: Thailand, Burma, Indonesia, the Philippines, Malaysia, Afghanistan, Pakistan, Bangladesh, India, Tanzania, Malawi; Electric cable installation: Panama, Cuba, Venezuela, Iraq, Pakistan; Computer technology: South Korea, Singapore, Nepal, the Philippines, Iran, Burma, Sudan, etc.. For a year and a half, I have accompanied participants on both their lectures in Tokyo and business trips to the countryside, so I can still remember their faces, names and countries. I worked with about 110 participants, including agricultural workers and government officials who had been selected in their respective countries as the core personnel for the cutting-edge technologies of communications and computers at the time.

 

A Perplexing Incident

1 Jyoban  Hawaiian  Center

This was at a meeting of the Tokyo Dosan-shu (Sake made in Hokkaido) Club, which is held once a month at a special restaurant in the main branch of Mitsukoshi department store in Tokyo.

“Yamano-san, do you know about the Joban Hawaiian Center?” Mr. Hotta, the former manager of the Mitsukoshi Sapporo branch and now the caretaker of the Tokyo Dosan-shu Club called out to me, who had missed the previous meeting.

Mr. Hotta continued, “The president gave a very good lecture at the Hokkaido Sake Association meeting last month. And the story of the development of the Joban Hawaiian Center is being made into a movie and will be released soon.”

“I know the Joban Hawaiian Center well. I went there two or three times 20 years ago!” I was filled with nostalgia. It was the late 1970s, so it was well over 20 years ago, but I answered with a modest figure. Mr. Hotta seemed surprised that I knew about the Joban Hawaiian Center and that I said I had fond memories of it. Generally speaking, the Joban Hawaiian Center was almost completely unknown until the Japanese film “Hula Girls” won the Japan Academy Prize for Best Picture and other awards in various categories, making it famous nationwide. In fact, even for me, although I had been there, the unfamiliar local area name “Joban” was a mystery for a long time, as I wasn’t sure whether it was in Ibaraki or Fukushima Prefecture. It was certainly a must-visit with the participants for the program itineraries, though.

As a training coordinator, I was in charge of the three-month training program in the agricultural sector, and the schedule almost always included a trip from Shinjuku, Tokyo to the Joban Hawaiian Center by bus, which would take place after the training finished at 3pm or 3:30pm on an early Friday afternoon. It took about two hours, but it was also an opportunity for the participants to leave Tokyo and see the expanse of Japanese paddy fields and residential areas from the bus window, and they could even take a nap on the bus, so this itinerary appeared to be popular. However, I and the other training coordinators were asked the same question by the participants: “We’re in Japan, so why are we going to see American culture?” The question had no ill intention. The participants were simply curious because it seemed peculiar.
I wanted to tell them that I felt the same way, but of course I couldn’t do that because of my position. That being the case, since it was a resort facility, similar to the other coordinators, I didn’t do any further research other than the facility guide.

When we arrived at the Joban Hawaiian Center, we saw that families and people on a company trip were just about to take their seats. The venue was about the size of three movie theaters, and the seats were fully occupied. The Hawaiian dance was performed on a stage with a Hawaiian backdrop, but it was a little different from hula dance. The female performers, dressed in long, brightly colored Hawaiian dresses, lined up in a row or two and danced to Hawaiian songs in a Hawaiian style, creating an elegant atmosphere.

It seemed that the majority of the visitors were from the local area and surrounding prefectures, and the Hawaiian Center was also popular as a hot spring. It developed into a tourist destination that combined Japanese and Western styles.

When we visited, the only foreigners we could see were JICA participants. The participants were quite perplexed by both the Hawaiian and hot spring experience, but they gave it a try for one night and two days at the Hawaiian center. Although they felt that the hot spring and Hawaiian culture seemed bizarre, they were able to choose their favorite dishes from the Western, Japanese and Japanese-Western fusion menus, and since they had been informed in advance that the food would be prepared in accordance with Islamic dietary laws, I think that they enjoyed the visit.

Coming back to the conversation with Mr. Hotta, he told me the most interesting story about the Joban Hawaiian Center.
In a lecture by the president of Joban Kosan Co., Ltd., which operates the center, he talked about how the local Joban coal mine, which had been in operation since the Meiji era (1884), was to be closed down. As a replacement industry, he introduced how they were planning to build a leading amusement facility, making use of the local hot springs. “I heard that there is a free bus from Shinjuku to the Hawaiian Center”. Mr. Hotta’s last comment solved one of my mysteries. It must have been an attractive program for JICA. The bus used for the training was rented, so it was impossible to tell the difference between the free bus and the rented bus.

In 1966, the theme of the amusement park was Hawaii, which was the dream destination for Japanese people traveling overseas at the time, and it gradually became a popular tourist destination nationwide. I felt a sense of regret that if the training coordinators, including myself, had known this, we could have explained the historical background to the trainees as an example of the decline of Japan’s coal mines and the success of the transition to a new tourist industry.

And if I were to add something more, I think that at the time, there was a dream that if you worked a little harder, you could travel abroad to Hawaii. At the same time, Hawaii was also a place with a deep historical connection to Japan, where people who had emigrated from Japan with dreams of success lived.
In this way, although we were unable to tell the JICA participants the story of the efforts and success of the industrial conversion of the Joban Coal Mine into a leading tourist destination, I myself unexpectedly received an answer to a question that I had been unable to answer 20 years ago.

When I looked up what had happened to the Joban Hawaiian Center, which became famous nationwide thanks to the “Hula Girls”, I found that it was now called “Spa Resort Hawaiians” and was located in Iwaki City, Fukushima Prefecture.
The location and name of the facility have remained the same, and it is said that more than 1.5 million people use it every year.

In 2018, the company cooperated in welcoming events for the international conference hosted by the Japanese government, the Pacific Islands Summit, and in 2020, it celebrated its 55th anniversary. The free bus service connecting various areas is still going strong, and it seems to be continuing to develop steadily. As someone who has benefited from the Joban Hawaiian Center, I was proud to be able to explain it to others.

However, as someone who knows the simple Hawaiian Center, I’m not sure if I want to actually go to the evolved Spa Resort Hawaiians.

End

 

2 Mr.Paw’s Interest

After returning to Burma (present Myanmar) upon completion of a three-month training course, Mr. Paw also sent a polite thank-you letter to Mr. Kondo and me, who had worked together as training coordinators. Every time I think of Mr. Paw, I have a sense of regret.

Mr. Paw participated in the “Agricultural Land and Water Resources” training course from June to August 1977. 20 participants were selected from Southeast Asia, Southwest Asia, East Africa, the Middle East and Central America, and Mr. Paw was the director of the Irrigation Department of the Ministry of Agriculture and Forestry in Burma.

The participants in this program had a wide range of specialties and training objectives, including topics such as irrigation construction, agricultural water, and drainage channels. For this reason, Mr. Kimura, the Director of the Structural Improvement Bureau of the Japanese Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries, was the course leader. Three or four young public officials also participated from Japan side, and there were also two staff members dispatched from an affiliated body of the Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries to support.

The main training location for the three months was at the Overseas Training Office of the Ministry of Agriculture and Forestry, but there was also a week-long training trip, as well as day trips to the Tokyo metropolitan area once or twice a week. This was because in order to carry out field research and visits on their specialist themes, it was necessary to leave Tokyo and visit places such as local irrigation systems, dam construction sites, local governments, agricultural cooperatives and farms in person.

During the trip, training coordinators were often asked questions by the participants about the Japan’s scenery they could glimpse from the bus windows, lives of the Japanese people, or about things they had been wondering about. Training coordinator Mr. Kondo and I sometimes consulted with each other on the spot and answered the questions. These were not questions related to the lectures but rather comments and observations about things that were so commonplace for Japanese people that had not been noticed before.

One thing that was commonly brought up was that when the participants visited the Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries’ agricultural experiment stations and other affiliated institutions in the countryside, both the director and the staff wore the same work clothes, and the top management and staff all behaved in the same way. Rather than giving top-down instructions to subordinates, the director would do the necessary work together. For example, the director would rearrange the desks and chairs with the staff. Also, at the time there were ashtrays at the workplace and the director would distribute them around the desks. The director would even go and get the chalk for the blackboard (whiteboard) himself. The participants were surprised and impressed that the director, who seemed so used to doing this kind of work, would do even the most menial tasks himself. Even in a large office, it was rare to see people in suits, and I was happy to hear the participants praise the abundance of practical people who would explain things or demonstrate experiments themselves on the spot if necessary.

Mr. Paw came up to me with a smile on his face to start a talk as we walked to the bus from the farm, we were visiting during our first study tour after arriving in Japan. “When I was a kid, there was a Japanese soldier called Sakurai who lived nearby, and I saw him every day. He was a kind person who played with me and taught me Japanese and Japanese songs.” At the farmhouse we had just visited, there were also kids, who were in the first and third grade of elementary school, that welcomed us shyly with tea and a variety of beautiful Japanese sweets and fruit.

After chatting for about an hour, the Indonesian participants gave the host family a gift on behalf of everyone and then sang two songs from their home country as a further expression of their gratitude. The participants sang an Indonesian folk song “Bengawan Solo”, which is well known in Japan, and “Nona Manis Siapa Jang Punja”, which was also a big hit in Japan and other Southeast Asian countries when Japanese singer Mitsuo Kaji sang the song in Japanese “Kawaii ano Ko”. Both were wonderful songs and performed brilliants by the participants, and the applause made everyone want to sing more, but we had to leave.

Indonesia Folk song: Bengawan Solo

I wonder if Paw was reminiscing his own childhood. Having used Japanese in some daily conversations that Mr. Sakurai had taught him and listening to Japanese songs, he murmured, “I really want to see Mr. Sakurai again.” It wasn’t just that he was recalling someone he missed, but I could tell that he really wanted to see Mr. Sakurai again during his stay in Japan. Despite more than 30 years have passed after the war, there were almost no one in Japan talking about what war and battlefields were like, and only a few books were finally published and read. Apart from researchers, the only source of information available to the public was the newspapers, which reported exactly what the military told them to.

The story was about a Japanese soldier who went to fight in Asia and his encounter with a child. Later, I heard many stories about Japanese soldiers who were hiding in the jungle and unable to return home because they didn’t know the war had ended, and so they remained in the battlefield. [20.11.24 edited]

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